Ni_bansenji

Ni_bansenji

語るタイプのオタクがおくるちゃんぽん感想文

令和は彼らの時代

 半年に20枚ほどCDをレンタルし、月に2枚ほど購入する。昨月はASIAN KUNG-FU GENERATIONの「DORORO/解放区」ともう1枚シングルを買っている。

 インディーズロックバンドのnatsumeのシングルだ。

 これがね、たまらなく当たりだったんだ。実を言うとアジカンよりずっと聴いてる。先日MVが出たということで私にプッシュさせてください。f:id:rasuno_nibannsennji:20190605074040j:image

natsume -「stay」(Official Music Video) - YouTube

 

 natsumeは横浜発の4ピースギターロックバンド。メンバーは真田樹(Vo./Gt.)・菅原佑哉(Gt.)・高橋光(Ba)・中瀬裕太(Dr.)の四人で構成される。

 ファーストシングルにあたる「STAY」は繊細で技巧的なサウンドに、荒削りで若々しいリリックを乗せた素晴らしい出来。収録曲は「いつになっても」「遥か」「STAY」の3曲。1曲ずつ感想を述べさせてください。

 

一曲目の「いつになっても」はバンドの決意をこめた若々しい1曲。真田(Vo/Gt)の声とギター一本で始まり、メンバーのカウントで弾ける。Bメロでもう一度じっくりと歌い上げるパートに入り、サビ前で加速。サビはリリックとしては熱がこもっているのに、のびやかなメロディーがそれをよく中和して爽やかに仕上げる。

 私が気になるのは曲名にもある「いつになっても」という言葉。これは、本来はいくつになってもだと思うんです。これが、いつになっている理由を考えるに、年単位よりも、秒単位で生きるという強調なのかなと。若いないいな。

 そしてこの曲のサウンドといえば高橋さん(Ba)ですよ。いやぁベースの優秀さが光る1曲ですよね、かっこいいなぁ大好き。あとAメロのドラムも好き、ボーカルの間に入れてくれるの大好き。ライブで聴いたら泣いてまう自信ある。EGG'sで聴けるよ。

 

 2曲目の「遥か」は真田作詞かなって予想してるんだけどどうかな?いつか歌詞カードを手に入れた時の楽しみに取っておきます。

 切なく美しいリフからイントロはスタート。入りの真田の声も弱々しくて柔らかくて。「いつになっても」と比べればかなりシンプルな構成で大人しく聞こえるものの、痛々しいぐらいに歌詞が刺さる。女々しくていい。

 忘れようとしても忘れられないことなんかきっと世の中には溢れていて。むしろ、忘れたいことなんか何一つ忘れられないことばかりで。それを詞にしないでくれ、辛い。ラストのまさかの言葉はリスナーにとっての爆弾だ。とりあえず歌詞読んで、気に入ったら買って。

 

どんなに綺麗な思い出さえ 僕を苦しくさせるだけ

僕が眠りについたとき 君をまた思い出すのかな

どんなに綺麗な思いさえ 溢れだしてしまう

どんなに綺麗な約束さえ ねぇ行かないでよ

君から貰ったこの愛は どこに捨てりゃいいんだ

君から貰ったこの愛は どこに捨てりゃいいの下りはRADWIMPSの白日を彷彿させますね。いい歌詞だなぁ。3曲中の最推し。

 

3曲目は表題曲の「STAY」。

 ドラムの4カウントから和音へと繋がり、特徴的なリフへ。呟くようなボーカルを包み込むサウンドがサビに向け徐々に強まり、釣られるように感情が溢れ出す。Cメロは16ビートに喪失感をたっぷり乗せる。女声のようなボーカルが共感を煽る。そこから一気に熱を高め、ラスサビ、アウトロへ。

 サビ終わりからCメロの始まりがイヤホンで聴くと左右順番に聴こえるのがかっこいいんだよお。

 Cメロから急に女声感が強まるのは視点が変わるからなのかなぁと勝手に思っている。A.Bは彼氏の視点、C.Dは彼女の視点...なんてのは考えすぎですね。

 歌詞としては「あなたの名前を呼んでいるよ」とのフレーズが好き。本当にどうしようも無くなった時に唱えてしまうのは、神さまなんかじゃなくて、想い人の名前だと思うのです。クリスチャンの八木重吉も「神様の名前を呼ばぬ時はおまえのなをよんでいる」って言ってるし。

 

 さてさて結成の決意を歌い、彼女との思い出を憂う1枚は通して青い。そこが若々しくて苦々しくて酸っぱくていい。

 彼らの音楽はMV公開後爆発的に広まった。「STAY」の再生回数は現時点で1100回を突破している。こうして彼らだけのものだったものが私たちの中で個々に生き始める。すると、彼らのリリースするものも徐々に変化し、青さを失うだろう。主観から客観へ、両目からレンズへ、君と僕との世界からもっと広げて。それでも夜の公園で揺れるブランコを見るような寂しさは残って欲しいと思う。

 なんておこがましいな。素敵なシングルを聴かせてくださってありがとうございます!次作を楽しみにお待ちしております!(らす)

 

追伸

思ったよりも伸びたのでMVについても少し。

イヤホンつけてると左右順番に聴こえるって言ったCメロ直前でそれに合わせてパンする写真が素敵。明らかに元カレが撮ってるアングルなのがたまらない。キャストさんも衣装さんも可愛くて、言うまでもなくカメラワークも撮るべきところを真摯に抑えていて...彼らは私たちリスナーだけじゃなくて製作陣にも愛されているんだなぁと思いました。今見たらYouTubeの再生回数は1300回超えてました。もっと伸びろ。

シロイルカは鏡になりうるか

 発表原稿の作成が終わって、金曜日の夜のようなテンションで帰宅しています。本番は明日なのに怖いねぇ。

 2週間ほど前から着々と準備を進めてきたはずなのに、テーマがあまりにも定まらなくて、結局文面を起こせたのは一昨日ぐらいになるんです。調べることは調べたし、疑問も解消してしまって、このテーマに全く関心が持てなくなって、カリカリしてたのが本日。見かねた知人が「そういう時はシロイルカを見るといいよ。」との助言をくれました。それに則って、検索エンジンにシ、ロ、イ、ル、カと入力。即座に画面いっぱいに現れるシロイルカの画像集。だいたい口が三日月形で笑顔のように見えるんだけど...。だけどさ、だけどさ、みなさんこれで癒されるんですか!えぇ?

 そもそも私は海洋哺乳類が好きではないらしい。アザラシだとかペンギンだとかイルカだとか、デフォルメされたイラストは大好きで、そういったものがモチーフのキャラクターも好むんですが、本物はまた別物でしょう。なんであんなに表面がヌメヌメしてるんですか?アザラシとかトドだとかヒレがないやつなんか、6割宇宙人ですよ。え、やつら超音波で交信できるんでしょ?9割宇宙人じゃん。

 そんな事言わないで、シロイルカには愛嬌があるじゃないって?いや、その愛嬌が怖いんですよ。やつらの笑顔って何だか裏がありそうじゃない?私には下に見られているように、馬鹿にされているように感じます。うひゃあ歪んでるなぁ。

 

 シロイルカに悪意がないことはわかってるんですよ。たぶん、きっと、おそらく。だけども、そう見えるんだから仕方が無い。

 そもそもこういう穿った見方しか出来ないのって、どう考えても自身が悪いんですよ。可愛いアイドルを見た時に整形だとか、性格悪そうだとか言っちゃうのはてめぇが歪んでるから。底抜けに明るいJPOPを好きになれないのは、てめぇが根暗だから。ボランティア活動をしている方を偽善だとか抜かすのは、てめぇが善になれないから。こういう女が嫌いだとか、こういう男が無理とか言うやつの方がずっと性格が醜い。こいつも気が合わない、合わない、もうGood Nightってやってるのは、周囲が悪いんじゃない。お前が悪いんだよ。

 優しくしてもらった時に、これは哀れみではないかなんて邪推したり、気がないなら優しくするななんて思うのはもちろん、ねぇ。

 

 ただこんなに歪んでしまっているのに優しくなりたいなんて言えるのは、傲慢なのか、斉藤和義なのかですよ。だからせめて人の優しさを許せるようになりたい。

 

 だとか微力にも悟ってみれば、あんなに憎たらしかったシロイルカも可愛く見えるのではって?

 もう一度検索エンジンを開き、シ、ロ、イ、ル、カと入力する。即座に画面一面に広がるシロイルカの画像集。つやつやした灰白色に円な点がふたつ、ぱっくり割れた逆二等辺三角形には細小で量の多い歯が並んでいる。優雅に水中を泳ぎ、もしくは体の周りを波立たせて水面から顔を出す。あら、案外愛らしいじゃない...!

とか言うと思ったか?やっぱりお前ら打算的な顔してるんだよ。人間様を舐めるな。歪みを正してもお前らは愛せないぞ。

 

 

雨の音で歌を歌おう

 先日の授業で、提出物に「あなたの好きな曲、あるいは歌詞の一節を教えてください」という欄があった。そんなむき出しの自分を晒すような恥ずかしいことができるか。隣には知り合いもいらっしゃいますし...。怖気付いた「私はスピッツの「優しいあの子」のラストが好きです」と書きました。

口にする度に泣けるほど 憧れて砕かれて

消えかけた火を胸に抱き 辿り着いたコタン

 

って歌詞なんだけど、たまらなく胸を締め付けられて聴く度に若干目を潤ませてしまうんですが、え、本当にこれが一番?もっと恥ずかしいものがあるんじゃない?って探してる家路です。

 

 前にも書いたけど私は何も考えないように音楽を聴いているのです。将来のことも縛られてる過去も今だって不安な要素になってしまうから耳栓の代わりにイヤホンを挿します。

 別になんのイベントもなくたって眠れない夜は訪れるし、その悩み事がまたくだらんのだ。誰かがいなきゃ生きていけないのに、誰といてもずっとひとりきりなのは惨いよなとか、私と一緒にいてくれる人は哀れみかもしくは都合よく使うために一緒にいてくれるのかなとか、間違っていることはわかっていても正しく生きることが出来ないなら倫理観なんかくそくらえとか、なんの節目でもないのに時間が経つことがとてつもなく悲しかったり。この悩み事ですら没個性で笑っちゃう。そう、こんなに苦しんでる悩み事なんて誰しもが抱えていて、みんな平気な面をしているってのが辛い。Mr.Children名もなき詩

あるがままの心で生きられぬ弱さを 

誰かのせいにして過ごしてる

知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で

苦しんでいるなら 僕だってそうなんだ

ってラストの一言はむちゃくちゃに染みるけど、同士がいたという喜びではなく、自分の情けなさにくる。

 

  なんだかんだ言って、桜井和寿は強い。本当はそういう人間にならなきゃ行けないんだろうけど、それでも私は弱い人が好きだ。自分の無力を知りながら何かを成そうとしている人が好きだ。

 

 それは「機械になりたいんだ優しさを持った」だとか「やめない意味はいつの日も寂しさだ」だとか「同じ地獄で待つ」なんて言ってくれる人だったりする。

 

 やっとたどり着きましたよ。道のりは長かった。本稿は星野源のエッセイ『そして生活はつづく』の感想文です。

 

 いやはや、これはすごいぞ。最近エッセイを読むのがブームでさ、町田康だったり、後藤正文だったりを漁っていた。きっかけは「ネガティブの反対はポジティブでなく没頭だ」とのオードリー若林の一文なんだけどさ。これがたまらなく刺さった私は、内容が似ているとの『そして生活はつづく』を読みはじめたのです。個人的には挙げた中で1番よかった。

 

 彼の抜けていてふざけていて面白おかしい日常から各章は始まるが、中盤で物事の核心を突き、その真面目な部分を恥じるように落ちをつけて終わる。これを書ける彼はただただ明るい人物ではないのだ。星野源を聴く人はもちろんご存知だろうけど、曲から滲み出る以上に彼は弱く、そしてそれを乗り越えようとしていた。

 

 彼は生活が嫌いで、歪んだ自分が好きで憎くて、自意識過剰な自分をなんとかしようとしていて、ひとりとは社会とは何かを考えている。

 そして彼が考え出した乗り越え方が「今を踊る」ことなのだと思う。以下で私の響いた箇所を紹介する。

 

私自身が自分の屈折した部分に「食わせて」もらっている

行きづらさを緩和するために表現をするのだし、マイナスがあるからプラスが生まれるわけだし、陰があるから光が美しく見えるのである。

 

そろっていたとしても、それは「ひとつ」では絶対ない。ひとりひとりがあつまった「たくさん」だ。

 

自分探しの旅とはよく言うが、私は積極的に「自分なくし」をしていきたい。

自分のことばかりではなく、なるべく人のことを考えるのがいちばんの近道だろう。

 

連なる理由があるのに、そこにはあまり触れようとはせずにイライラばかりを募らせて、結果的に自分に原因があるのにもかかわらず、「こんなにしんどいことばかり連鎖してしまう自分は不幸だ」などと考えるようになり、そこからどんどんマイナス思考になって、最終的には「俺なんか消えてしまえばいいのさ」(以下略)

 

私は生活が嫌いだったのだ。できれば現実的な生活なんて見たくない。ただ仕事を頑張っていれば自分は変われるんだと思い込もうとしていた。(中略)

むやみに頑張るのではなく、毎日の地味な部分をしっかりと見つめつつ、その中におもしろさを見出すこと(以下略)

 

 

 何も意識をしないことを、苦痛であることを面白がる。この考え方がきっと「アイデア」に出ているだろうなぁ。無事戻ってこれました?今を踊ると雨の音で歌を歌うはきっと同じこと。次からはこの節を書こうと思います。

 

 夢の抜け殻が消耗しない唯一の方法が、普通の生活を思ったままに楽しみ、心を踊らせることだ。それは難しいけれどこのまま一生自閉探索してるよりいいかなぁと思う。

 

 深夜に聴く「nothing」や「堂々巡りの夜」が染みないようになりたい。いや、やっぱり勿体ないからもう少しだけ、明日から、いや、一週間後から、いや...。(らす)

 

 

 

 

 

 

 

幸せになりたいっすね

 私は未だに田中守ではない。

 このセリフの意図はなんだ。

 

 映画『愛がなんだ』を観てきた。信じられないことにゴールデンウィーク中でも上映は1日1回のみ。しかも、19時スタート。どんな方々が集まるのかと思いきや、完売でした。やっぱりジワジワきてるんだねぇ。

 見終わったあと、後ろの席の大学生達が「私らには10年早い」「思っていたのと違った」「私は普通に生きようと思う」と言いながらでてきた。

 普通になれたら苦労はしない。きっと君らは幸せな恋愛をしてきたのだろう。羨ましい。いや、こんな小っ恥ずかしい感想は人と言い合えないや。あのグループ中で押し殺した声がある方は私と話をしよう。

 

 早く大人になりたいなんて言っていた日々は遠く過ぎ去って、中身がどうであろうとも選挙権なんか持っちゃってさ。打算や妥協を覚えてからの片想いって、それ以前より格段に痛い。声をかけることも覚束無い恋は憧れと呼びかえ、手が届きそうで絶対届かないものが片想いになる。(書き終わってから文庫版の解説で島本理生が同じような書き出しをしてたことに気づきました、びっくり)

 

 岸井ゆきの演じるテルちゃんは本当にどうしようもなかった。右手のお供は金麦のロング缶で、マモちゃんに会う時にはセットされている髪は彼がいない時は右後ろが跳ねている。

 対するマモちゃんのどうしようもなさが溢れていた...と言いたいが成田、かっこよすぎるよ。貧相で猫背で可愛い男?いや、成田の身振り手振りはまさにそれができてるんだけど、体格とか顔はどうにもならないじゃん?手だけが綺麗な男?いやいやいやいや、背筋最高だったし、キャップ被らないで〜息ができない、衣装最高、朝方の伸びかけの髭たまらなすぎる。予告で出てた足のシーンもたまらんし、追いケチャップ(アドリブらしいぜ死んだ)もイケメンがすぎる、部屋にスニーカーの箱が積まれているのも私には結構来た。

 おっとルックスの話はこの辺りでやめましょう。

 

  さてさて、「田中守ではない。」の意味を考察しましょう。 

 劇中で中原とテルちゃんが大晦日に「幸せになりたいっすね」と語るシーンがある。寂しくって眠れなくて誰でもいいから話がしたい時に、都合よく使ってもらえるやつになりたいと中原くんは話す。対して、テルちゃんはマモちゃんになりたいと話すのだ。

 

 冒頭であげた手が届きそうで絶対届かない片想いのほとんどは、想い人が思われていることに気づいているのではないか。気づかれていることがわかっていてもどうしても止められない執着がある。また、晴れて結ばれたとしてもそこに妥協は生じるでしょう?お互いどこか折れなければ寄り添えないでしょう?この世の恋愛も友情も何もかもの人間関係はどう転んだとて片想いなんですよ。

 

私達はどう頑張っても同じ強さで思い合うことは出来ない。二人いれば必ず優位な側ができてしまう。相手のことを思えば思うほど相手に尽くし、冷めれば冷めるほど余裕ができる。相手に合わせて気ばかり使って空回りするのは前者、サバサバして自分を出せるのが後者。この関係は気を遣わなくて楽でいいね、はどちらかが気を使っているか、お前のことをなんとも思っていないからだよ。

 相手の全てを理解することは出来ないし、分かってもらうことも出来ない。

 

 そんなことがとてつもなく辛いから、2つであることなんかやめてひとつになりたい。がこのセリフの真意か。

 はたまた、田中守になれなければ、お母さんでもお姉さんでもいいというセリフから、どんなに嫌われても繋がっている存在になりたかったのか。一生離れないで済むポジションで居たかったのか。自分さえどうでもよくなってしまう想いが恋でも愛でもないなら救われない。

 

 テルちゃんにこれだけ感情移入できた人はきっとお気づきだろう。私達はいつだってテルちゃんであり、マモちゃんで、その表裏は一体なのだ。

 思うことは自分を殺すことで、思われることは相手を殺すこと、畜生、幸せになりたいっすね。(らす)

 

追伸:映画ではテルちゃんはマモちゃんを思うあまり、自分のこともどうでもよくなっているように描かれる。ただ、小説を読む限り、テルちゃんはたぶん相手は誰でも良くて尽くしてる自分が好きなんじゃないかと感じる。この辺りを原作との差異として挙げさせてください。

 

 

 

 

 

青春の残り香 『ここは退屈、迎えに来て』

別れる男に、花の名前を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。

川端康成『化粧の天使達』より

 

 有川浩の『植物図鑑』を読んでから、いつかは読もうと考えているが、その目標は未だ達成出来ていない。そんな本から一節。

 

 筆者は植物に疎い。未だに金木犀の匂いもわからない人間だ。それなら、筆者はこの言葉をどう言い換えるだろうか。

 筆者ならきっと、曲を教える。もちろん男になんか限りませんとも。

 

 だれかに教わった曲はどうして忘れられないのだろう。嵐のStill、flumpool君に届け、ONE OK ROCKのカラス、RADWIMPS有心論、backnumberの半透明人間。見てるか、そこのあなただよ、もう忘れてるだろ。

 

 きっとこの映画の登場人物たちも、そんな忘れられない曲がある。映画を見終わった時にぼんやりとそう考えてしまった。

 

 本稿では映画『ここは退屈、迎えに来て』について語る。

 今作は山内マリコ原作の群青劇だ。舞台は富山県橋本愛演じる「私」が、高校時代に憧れた椎名くんに会いにいくところから始まる。その後、主人公は、椎名くんを中心に何度も転換する。椎名くんの元カノ「あたし」、椎名くんに憧れるサツキ、地味なクラスメイト新保くん、援交をするクラスメイトなっちゃん、椎名くんと同郷の南とあかね、椎名くんの妹の朝子。お察しの方もいるだろう。本作は『桐島、部活やめるってよ』と同じ構成をとる。透明な椎名くんを中心として現在と過去を描くのだ。

 

 この映画が言いたかったことは、思い出は思い出のままで、かもしれないし、何者かになりたい人は何にもなれない、かもしれない。私個人としては、大切な誰かが歌っていた歌は大切でなくなっても忘れられない、かなとも思う。

 

 今作で象徴的に用いられたのは長回しフジファブリックの「茜色の夕日」だ。これこそ青春であるといわんばかりのプールでのシーンも嫌いではないが、私は断然ラストがこの映画の真骨頂だといいたい。

 先日、今作のレビューをあさっていた際に「そこまで著名ではない本曲をなぜ登場人物皆が歌えるのかその意図が見えない」とのコメントを拝見した。何か明瞭な意図があるのではと監督のインタビューをさらったが、特にそんなことはないらしい。

 ここからは完全に私個人の見解だが、「茜色の夕日」がその世代が全員歌えるわけでない名曲であることが、彼らがそれを歌う意味なのではないか。つまるところ、これは椎名君が口ずさんでいた曲なのだ。地元で全能的存在だった若い彼は、曲の意味を知らずにこの曲を口ずさみ、それが登場人物全員の高校時代を彩る。彼らの高校時代は椎名君を中心に回っていたのだから。大阪に出て、椎名君にとって「茜色の夕日」の意味が変わっても、彼に思いをはせていた彼らの「茜色の夕日」の意味は変わらない。彼らが曲の意味に気づくのは、色あせてしまった現在の椎名君に再会したその一瞬。彼らの青春が曇ったその刹那。

 

 井の中だった椎名くんたちはきっと砂の数ほどこの世界に存在する。彼らの物語は描かれない。物語の主人公になれる人は確かにいる。それ以外の人はバイスタンダーではなく、物語のの外に置き捨てられる人物だ。しかし、苦みを伴うあの曲を聴いているものの5分だけは私たちこそが主人公なのだ。

 

 そうして一人一人に脚光を向けるために、今作は群青劇として撮られたのか知れないが、いかんせん主役が多すぎた。橋本愛門脇麦だけに絞れれば「青春てよかったね」なんて映画に受け取られないで済んだように思う。(らす)

平成最後の晩夏とペンギン

  映画『ペンギンハイウェイ』の上映は終わっただろうか。大人達よ、本作を子供だましの夏休み向け映画と思うなかれ。本作は、かつて子供だった大人達に向けた晩夏の物語だ。

 

 本項はネタバレを含む。注意して閲覧いただきたい。

 

 さて、筆者は映画原作の、森見登美彦氏のファンである。しかし、『ペンギンハイウェイ』は異色作で筆者はあまり好きではなかった。本作には腐れ大学生の1匹も出ず、何より舞台が京都ではない。森見登美彦成分の実に薄い作品なのである。しかし、せっかく映画もやっているしと足を伸ばした先でやっとこの作品に捕まったのである。それでは、映画の何がいいか。それは、おっぱいであり、声のマッチングであり、映像美であり、宇多田ヒカルである。ひとつずつ見ていく前に軽いあらすじを説明しよう。

 

 舞台は海辺から離れた新興住宅地である。主人公は大変頭のいい小学生であるアオヤマくんである。彼は日々勉強し、研究に励んでいる。彼の研究テーマは多岐に渡るが、最大のテーマはお姉さん研究である。お姉さんとは、近所の歯科医院に務めるFカップ歯科助手であり、アオヤマくんは彼女のおっぱいに夢中なのである。そんな彼の住む街に突如ペンギンが出現する。幾度も現れるペンギンの謎を解くために、アオヤマくんと仲間たちは研究を始める。

 

今作はこのように巧妙に子供向け映画の皮をかぶる。しかし、一皮剥けば哀愁を誘う立派な大人向け映画である。

 

  ところが、『ペンギンハイウェイ』 感想 で検索をかけると、おっぱいの話しか出てこない。これでは、今作がおっぱいのあるお姉さんとのおねショタと思われてしまうではないか、全くけしからん。しかし、この作品の感想を一言で言うならおっぱい以外に言いようがないのである。おっぱいを連発して申し訳ないが、アオヤマくんのせいで前半からおっぱいにしか目がいかない。完全につくり手はフェチズムに働きかけるよう映画を作っている。これだけでも十分に見る価値を与えている。けしからん。

 

ただ、後半になると観客の目は、おっぱいから離され、おねショタ目当てに見に行った客は高倉健の顔をして出ていくのだ。(cbdさんのお言葉をお借りします)

 

 

 後半では、暴走を始めた「海」が街を飲み混む。警察をはじめとする大人が手も足も出ない状況の中、唯一「海」の謎を解くことが出来たアオヤマくんは街を救うために走る。「海」は世界の穴であり、お姉さんから生み出されるペンギンは歪みを直す者だったのである。この仮説を語るアオヤマくんは、ついにお姉さんの前でお姉さん研究の成果を告げる。お姉さんもベンギンたちと同じ存在であるという推測を。「海」を消す存在であるお姉さんは、「海」を消してしまえば存在意義がなくなり消えてしまう。苦渋の決断を迫られたアオヤマくんは街を救うことを選ぶ。街は救われ、お姉さんは消える。

 そして、再会を祈るアオヤマくんのモノローグで物語は終わる。

 

 

ただ私が書きたかったものはここからなのである。エンディングの宇多田ヒカルがこの映画の全てである。「Good Night」は宇多田ヒカルの『初恋』に収録される曲である。何が良いって本曲は大人になったアオヤマくんの目線から書かれているというところですよ!そんなのたまらないじゃないですか。以下がその歌詞である。

 

ああ 無防備に瞼閉じるのに
ああ 夢の中に誰も招待しない君

Hello 僕は思い出じゃない
さよならなんて大嫌い

 

さよならが言えないからおやすみをいう発想が素敵。そう、今作の終盤、観覧者はアオヤマくんの未来に思いをはせずにいられない。彼はこれからどうなるのか。彼の願いは叶うのか。

偉大なる登美彦氏は一抹の希望だけを残して本作を締める。

生きているものはいつか必ず死ぬと。これはアオヤマくんと本作の観覧者にとって絶望にはなり得ないだろう。

 

p.s.アオヤマくんのお父さんは確実に登美彦氏がモデルだ。作中にはこっそりあの本が隠されている。作品名が違うなどという生粋のファンは私と話しをしましょう。

 

 

 

青春の残り香

 10代のうちに手に入らなかったものを人は一生追い求めると聞いた覚えがある。若いうちに手に入ってしまったものを一生追い求めるのもまた道理だろう。それなら、人生のおよそ10分の1に満たない青春に私はどれだけ苦しめられるのだろうか。

 

 本稿と、その続編では、今年公開された2つの映画について触れる。どちらも話題作であり、また胸の内にこっそりしまうつもりの作品だったが、ついうっかり書かせてもらいたい。本日はとてつもなく書きたい気分なのです。

 

 私が先日見た二つの映画は『SUNNY 強い気持ち強い愛』と『ここは退屈、迎えに来て』だ。

 

 まずは1つ目の『SUNNY 強い気持ち強い愛』について書こう。本作は韓国映画『SUNNY』のリメイクだ。監督は『バクマン。』や『モテキ』での活躍が記憶に新しい(恐ろしいんだけどモテキはもう新しくないらしいよ)大根仁、音楽は引退を発表した小室哲哉、近年お涙頂戴映画の火付け役(ごめんなさい、軽く観れるので私は大好きなんだけど)川村元気。さらに、主題歌は小沢健二の「強い気持ち・強い愛」。なんだこれは、J-POP全開、ええじゃないか状態の超弩級パーティー映画になると思っていた。そんな映画のキャッチコピーがまさかの「大人になって青春と再会した」だ。見に行かないわけに行かない。

 舞台は2018年の東京、専業主婦の奈美(篠原涼子)が末期ガンに侵された芹香(板谷由夏)と再会するところから始まる。余命1ヶ月の親友の最後の願いは高校時代の友人グループ「SUNNY」と再会すること。親友のため奈美はかつての仲間たちを探し始める。

 物語は奈美の回想を中心に進行する。高校時代のSUNNYのメンバーを演じるのは広瀬すず(奈美)、山本舞香(芹香)、野田美桜(裕子)、田辺桃子(心)、富田望生(梅)、池田エライザ(奈々)だ。

 奈美は興信所を頼りにかつてのメンバーを集めていくが...。現代の進行とともに少しずつ、何故彼らは散り散りになってしまったのかが明かされる。

 

 さて、本作で私が書きたいのは2点。パンフに名前が乗らない彼女のこと、大人になった彼らが抱える切なさとそれをJ-POPにまとめた大根仁のことだ。

 1つ目は鰤谷(小野花梨)について。ドラッグに手を出し、仲間うちから外され、執拗に奈美を虐める彼女はラストシーンまで徹底的にヒールを演じる。彼女はみっともなく、またおぞましく、ゴミを見るような、憐れむような目でSUNNYメンバーに見られる。しかし、ラストシーンで彼女が漏らすのは「友達になって」「なんであたしは仲間には入れないの」「あんなにいっぱい遊んだじゃん」(全てうろ覚え)という悲痛な叫びなのだ。彼女は道を誤るが、彼女の根底は芹香への好意でできていたのだ。それなのに、彼女は、芹香がいちばん大切にしていたSUNNY崩壊のきっかけを作る。事態は彼女が望んだものと真逆に進んでいく。

 私が一番幸せになって欲しかったのは鰤谷だ。冒頭の話を引用すれば、彼女は一生芹香の影を求めることになる。しかし、彼女の求める存在は彼女の知らない間に失われている。20年後の彼女がどうしているのか気がかりで仕方が無い。実は彼女はラストシーンに映っているのだが、その話は2つ目の話の後にしよう。

 2つ目は大人の切なさについてだ。本作を象徴するのはラストの「強い気持ち・強い愛」のダンスシーンだろう。あれがあることで、観客は「面白かったね〜。懐かしかったね〜。教室にEGG置いてあったの見つけた?」なんて話をしながら映画館を出ていくことができる。しかし、私は言いたい。いや、ちょっと待ってよ、この映画めちゃくちゃ暗いじゃん。高校時代と現在の対比、賑やかな青春が崩壊する様、親友の死との遭遇。これを懐かしかったで済ますことが出来るか。

 本作で1番輝いているシーンは、ダンスコンテストを控えたSUNNYが、未来の自分たちに向けてビデオメッセージを残すシーンだ。実際に彼らがハンドカメラを用い、アドリブを多用して作ったシーンには必見の価値がある。池田エライザがアドリブで泣き始めるシーンも素晴らしいのだが、ここではシナリオを取り上げたい。このシーンはたまらなく微笑ましく、どうしようもなく切ない。観客に自らの高校時代を思い出させることはもちろん、SUNNYのメンバーの高校時代と現在の差を浮き彫りにするのだ。

 1番切ないのは奈美の「これからもずっとずっとみんなと仲良しでいてね」というセリフだ。ここで奈美が終わりを意識しているのがわかる。青春は過ぎ去ってからわかるものという人がいるが、そうだろうか。奈美がこれを願わねばならなかったのは、渦中にいながら彼女がこの関係が終わってしまうことをどこかで分かっていたからだ。その願いも虚しく予想通りになり、この映像を篠原涼子演じる20年後の彼女は一人で見ている。

  一番寂しくなったのは仲間を助ける方法の移り変わりだ。高校時代、鰤谷の振りかざした破片を受け、奈々は顔に傷を負う。体を張ることが、彼らにとっての友人を助ける手段だった。何も持たない彼らはそうするしかなかったのだ。対して、20年後の奈美は友人を探すため大枚を払う。芹香は友人を救うため、多額の遺産を残す。彼らを助けられるのはもう金しかないのだ。もちろんこれが最も正しい行為だったとわかっているが、こんなつまらないことに寂しくなってしまった。

 

 と、ぐだぐだ並べてきたが、SUNNYは先に述べた通り明るい気持ちで見終わることが出来る。なぜ今作がこのような作りになっているか。それは、もちろん、悲しいのは現実だけで十分だからだろう。青春映画は見るものに、青春時代と現在を対比させ、やるせない気持ちにさせる。生きていく上で、そんな時間も確実に必要なものだろう。しかし、それでは活力が失われてしまう。そのために、本作は上演中に憂鬱なきもちを抱かせ、ラストのダンスシーンでそれを完全に持っていく。オールキャストが登場し、幸せそうにしているシーンを見せられ、喜ばない観客はいないだろう。ラストのダンスシーンが観客に「強い気持ち・強い愛」を抱かせる大根仁マジックなのだ。

 冒頭で述べた通り、青春は甘酸っぱいと言うよりも苦く酸っぱいものだろう。その苦く酸っぱい青春を笑い飛ばすのが本作だ。和製マンマミーアとされた本作は、私を含む多くの人が見返すものになるだろう。(らす)