Ni_bansenji

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語るタイプのオタクがおくるちゃんぽん感想文

平成最後の晩夏とペンギン

  映画『ペンギンハイウェイ』の上映は終わっただろうか。大人達よ、本作を子供だましの夏休み向け映画と思うなかれ。本作は、かつて子供だった大人達に向けた晩夏の物語だ。

 

 本項はネタバレを含む。注意して閲覧いただきたい。

 

 さて、筆者は映画原作の、森見登美彦氏のファンである。しかし、『ペンギンハイウェイ』は異色作で筆者はあまり好きではなかった。本作には腐れ大学生の1匹も出ず、何より舞台が京都ではない。森見登美彦成分の実に薄い作品なのである。しかし、せっかく映画もやっているしと足を伸ばした先でやっとこの作品に捕まったのである。それでは、映画の何がいいか。それは、おっぱいであり、声のマッチングであり、映像美であり、宇多田ヒカルである。ひとつずつ見ていく前に軽いあらすじを説明しよう。

 

 舞台は海辺から離れた新興住宅地である。主人公は大変頭のいい小学生であるアオヤマくんである。彼は日々勉強し、研究に励んでいる。彼の研究テーマは多岐に渡るが、最大のテーマはお姉さん研究である。お姉さんとは、近所の歯科医院に務めるFカップ歯科助手であり、アオヤマくんは彼女のおっぱいに夢中なのである。そんな彼の住む街に突如ペンギンが出現する。幾度も現れるペンギンの謎を解くために、アオヤマくんと仲間たちは研究を始める。

 

今作はこのように巧妙に子供向け映画の皮をかぶる。しかし、一皮剥けば哀愁を誘う立派な大人向け映画である。

 

  ところが、『ペンギンハイウェイ』 感想 で検索をかけると、おっぱいの話しか出てこない。これでは、今作がおっぱいのあるお姉さんとのおねショタと思われてしまうではないか、全くけしからん。しかし、この作品の感想を一言で言うならおっぱい以外に言いようがないのである。おっぱいを連発して申し訳ないが、アオヤマくんのせいで前半からおっぱいにしか目がいかない。完全につくり手はフェチズムに働きかけるよう映画を作っている。これだけでも十分に見る価値を与えている。けしからん。

 

ただ、後半になると観客の目は、おっぱいから離され、おねショタ目当てに見に行った客は高倉健の顔をして出ていくのだ。(cbdさんのお言葉をお借りします)

 

 

 後半では、暴走を始めた「海」が街を飲み混む。警察をはじめとする大人が手も足も出ない状況の中、唯一「海」の謎を解くことが出来たアオヤマくんは街を救うために走る。「海」は世界の穴であり、お姉さんから生み出されるペンギンは歪みを直す者だったのである。この仮説を語るアオヤマくんは、ついにお姉さんの前でお姉さん研究の成果を告げる。お姉さんもベンギンたちと同じ存在であるという推測を。「海」を消す存在であるお姉さんは、「海」を消してしまえば存在意義がなくなり消えてしまう。苦渋の決断を迫られたアオヤマくんは街を救うことを選ぶ。街は救われ、お姉さんは消える。

 そして、再会を祈るアオヤマくんのモノローグで物語は終わる。

 

 

ただ私が書きたかったものはここからなのである。エンディングの宇多田ヒカルがこの映画の全てである。「Good Night」は宇多田ヒカルの『初恋』に収録される曲である。何が良いって本曲は大人になったアオヤマくんの目線から書かれているというところですよ!そんなのたまらないじゃないですか。以下がその歌詞である。

 

ああ 無防備に瞼閉じるのに
ああ 夢の中に誰も招待しない君

Hello 僕は思い出じゃない
さよならなんて大嫌い

 

さよならが言えないからおやすみをいう発想が素敵。そう、今作の終盤、観覧者はアオヤマくんの未来に思いをはせずにいられない。彼はこれからどうなるのか。彼の願いは叶うのか。

偉大なる登美彦氏は一抹の希望だけを残して本作を締める。

生きているものはいつか必ず死ぬと。これはアオヤマくんと本作の観覧者にとって絶望にはなり得ないだろう。

 

p.s.アオヤマくんのお父さんは確実に登美彦氏がモデルだ。作中にはこっそりあの本が隠されている。作品名が違うなどという生粋のファンは私と話しをしましょう。