Ni_bansenji

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語るタイプのオタクがおくるちゃんぽん感想文

幸せになりたいっすね

 私は未だに田中守ではない。

 このセリフの意図はなんだ。

 

 映画『愛がなんだ』を観てきた。信じられないことにゴールデンウィーク中でも上映は1日1回のみ。しかも、19時スタート。どんな方々が集まるのかと思いきや、完売でした。やっぱりジワジワきてるんだねぇ。

 見終わったあと、後ろの席の大学生達が「私らには10年早い」「思っていたのと違った」「私は普通に生きようと思う」と言いながらでてきた。

 普通になれたら苦労はしない。きっと君らは幸せな恋愛をしてきたのだろう。羨ましい。いや、こんな小っ恥ずかしい感想は人と言い合えないや。あのグループ中で押し殺した声がある方は私と話をしよう。

 

 早く大人になりたいなんて言っていた日々は遠く過ぎ去って、中身がどうであろうとも選挙権なんか持っちゃってさ。打算や妥協を覚えてからの片想いって、それ以前より格段に痛い。声をかけることも覚束無い恋は憧れと呼びかえ、手が届きそうで絶対届かないものが片想いになる。(書き終わってから文庫版の解説で島本理生が同じような書き出しをしてたことに気づきました、びっくり)

 

 岸井ゆきの演じるテルちゃんは本当にどうしようもなかった。右手のお供は金麦のロング缶で、マモちゃんに会う時にはセットされている髪は彼がいない時は右後ろが跳ねている。

 対するマモちゃんのどうしようもなさが溢れていた...と言いたいが成田、かっこよすぎるよ。貧相で猫背で可愛い男?いや、成田の身振り手振りはまさにそれができてるんだけど、体格とか顔はどうにもならないじゃん?手だけが綺麗な男?いやいやいやいや、背筋最高だったし、キャップ被らないで〜息ができない、衣装最高、朝方の伸びかけの髭たまらなすぎる。予告で出てた足のシーンもたまらんし、追いケチャップ(アドリブらしいぜ死んだ)もイケメンがすぎる、部屋にスニーカーの箱が積まれているのも私には結構来た。

 おっとルックスの話はこの辺りでやめましょう。

 

  さてさて、「田中守ではない。」の意味を考察しましょう。 

 劇中で中原とテルちゃんが大晦日に「幸せになりたいっすね」と語るシーンがある。寂しくって眠れなくて誰でもいいから話がしたい時に、都合よく使ってもらえるやつになりたいと中原くんは話す。対して、テルちゃんはマモちゃんになりたいと話すのだ。

 

 冒頭であげた手が届きそうで絶対届かない片想いのほとんどは、想い人が思われていることに気づいているのではないか。気づかれていることがわかっていてもどうしても止められない執着がある。また、晴れて結ばれたとしてもそこに妥協は生じるでしょう?お互いどこか折れなければ寄り添えないでしょう?この世の恋愛も友情も何もかもの人間関係はどう転んだとて片想いなんですよ。

 

私達はどう頑張っても同じ強さで思い合うことは出来ない。二人いれば必ず優位な側ができてしまう。相手のことを思えば思うほど相手に尽くし、冷めれば冷めるほど余裕ができる。相手に合わせて気ばかり使って空回りするのは前者、サバサバして自分を出せるのが後者。この関係は気を遣わなくて楽でいいね、はどちらかが気を使っているか、お前のことをなんとも思っていないからだよ。

 相手の全てを理解することは出来ないし、分かってもらうことも出来ない。

 

 そんなことがとてつもなく辛いから、2つであることなんかやめてひとつになりたい。がこのセリフの真意か。

 はたまた、田中守になれなければ、お母さんでもお姉さんでもいいというセリフから、どんなに嫌われても繋がっている存在になりたかったのか。一生離れないで済むポジションで居たかったのか。自分さえどうでもよくなってしまう想いが恋でも愛でもないなら救われない。

 

 テルちゃんにこれだけ感情移入できた人はきっとお気づきだろう。私達はいつだってテルちゃんであり、マモちゃんで、その表裏は一体なのだ。

 思うことは自分を殺すことで、思われることは相手を殺すこと、畜生、幸せになりたいっすね。(らす)

 

追伸:映画ではテルちゃんはマモちゃんを思うあまり、自分のこともどうでもよくなっているように描かれる。ただ、小説を読む限り、テルちゃんはたぶん相手は誰でも良くて尽くしてる自分が好きなんじゃないかと感じる。この辺りを原作との差異として挙げさせてください。