個性と能力
心理学の授業でシンパシーとエンパシーについて習った覚えがある。
たしか、相手の体験と自分の経験を同一視することで共感することがシンパシーで、未経験の事象であっても他者を自分に投影できる能力がエンパシーであったと思う。
つまり、想像力があれば他者理解ができる。裏を返せば、どれだけ言葉や体を交わそうとも、結局は頭の中でしか私たちは他人を知れない…と勝手に解釈している。
私にとって思い入れのある言葉なのだ。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの新曲タイトル「エンパシー」は。本稿はこの楽曲の歌詞、ジャケ写からメッセージを読み解くものだ。
読んでも読まなくてもいいから、いややっぱちょっと読んでほしいけど、とにかく「エンパシー」を聴いてください。
さて、来たる8月5日にリリースされる「エンパシー」は、アジカンの結成25周年を彩るシングルであり、『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ワールド ヒーローズ ミッション』の主題歌だ。
7月21日に公開されたMVでその曲の全貌を聴くことができる。
ASIAN KUNG-FU GENERATION 『エンパシー』Music Video - YouTube
煎じ詰めりゃエンパシー
映画の予告編で聴くことができたサビとは毛色の異なる哀愁漂うメロディーに載るのは、等身大の祈り。
特にタイトルを回収する
時に激しい雨に打たれても
夜に独り抱えた言葉でも
きっと哀れみも悲しみも煎じ詰めりゃエンパシーで僕らの魂の在処かも
との歌詞は秀逸だ。
後藤正文は著書『何度でもオールライトと歌え』の中で、
それでも、ロックンロールだけは、泥だらけの荒野からでも「オールライト(大丈夫)!」と鳴らすものなんだと思っている。
と言っていた。
この曲はそれをさらに乗り越えたように感じる。泥だらけの荒野で、ただ「大丈夫!」と勇気づけるだけでない。辛酸を舐めた経験が誰かを理解する能力に繋がる可能性まで示唆して、背中を押してくれる。なんて優しいんだろう。
加えて「世界が叫んでいるぜ」とのフレーズも印象的。単体で聞くと、個を置き去りにしながら変わり続ける世界の混乱を描いているように聞こえるが、二度目のサビで
世界が叫んでいるぜ いつでも 君の名前を
とのフレーズが付け足されることで無縁と不安を払拭する。
そして、「エンパシー」はアジカンが聴く者を救うだけに終わらない。ラスサビ前でゴッチが歌うのは、得た能力の使い道だろう。彼の言葉を借りるなら、
生まれた場所に基づく風景を
虹彩や皮膚に紐づけられた
運命を打ち消して
ただ認めあうような将来を
思想、個性、人種と解していいのか、自分の持たないものを想像し、理解し、分断を防ぐ。それが、傷を負って得たエンパシーという能力の使い道だと私は受け止めた。
「エンパシー」は受けた痛みは想像力に変えて他者理解のために、なんてエンパシーの話に留まらず、この曲を聴いた者からそれを実行してほしいとの願いともとれる。
アジカンに救われた者が、それを継承し、また誰かを救うなんてどこかの漫画みたいですね。
25周年のその先を望む曲としてもぴったり。
ツールこそがエンパシー
続いてジャケ写の話を。
アートワークはもちろん中村佑介。空を切るオールマイトや、アジカン25周年の手漕ぎボート、見覚えのある書名や、マルクス、制服はアカデミア意識かしら?なんて小ネタは置いておいて、なんでこの絵がエンパシーなのかを考えていたんです。
意味深に停車線に乗り上げた船を囲むのは、そんな船などお構いなしに行きかうマスクをした魚たち。船に乗るのは、ロリータに身を包む猫の女の子とヤンキー然した犬の男の子。 それぞれは金棒と花束を持つ(なにこれ「こころとあたま」?)。
思うに魚たちは一匹も同じ種類がいないことから個性を、船に乗る彼らは相違の象徴だと思う。このままでは社会を表しただけですよね。
対するエンパシーの象徴は、彼らが持つ金棒と花束の事ではないか。それぞれが本来なら持たず、むしろ相手が好みそうなモチーフを手に取っているように見える。そんな二人は猫の手により接点を持ち、こちらを見つめる。 そして、この二人のみ断絶の象徴であるマスクをしていないのです。
多様性を許す多文化社会の中での他者理解の絵だったらいいなと思います。
おまけ
MV中の海岸を望む道路は、県道27号線。
「何もない町」は三崎4丁目で海南神社の麓だと思います。
三浦半島はアジカンのホームタウンだそうなので、早く京急とコラボするか、冗談で言ってた逗子線で曲を作るを実行してください。神武寺オールドスクールか神武寺クローズドで曲を作ってください、アジカンさんお願いします。