青春の残り香 『ここは退屈、迎えに来て』
別れる男に、花の名前を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。
川端康成『化粧の天使達』より
有川浩の『植物図鑑』を読んでから、いつかは読もうと考えているが、その目標は未だ達成出来ていない。そんな本から一節。
筆者は植物に疎い。未だに金木犀の匂いもわからない人間だ。それなら、筆者はこの言葉をどう言い換えるだろうか。
筆者ならきっと、曲を教える。もちろん男になんか限りませんとも。
だれかに教わった曲はどうして忘れられないのだろう。嵐のStill、flumpoolの君に届け、ONE OK ROCKのカラス、RADWIMPSの有心論、backnumberの半透明人間。見てるか、そこのあなただよ、もう忘れてるだろ。
きっとこの映画の登場人物たちも、そんな忘れられない曲がある。映画を見終わった時にぼんやりとそう考えてしまった。
本稿では映画『ここは退屈、迎えに来て』について語る。
今作は山内マリコ原作の群青劇だ。舞台は富山県。橋本愛演じる「私」が、高校時代に憧れた椎名くんに会いにいくところから始まる。その後、主人公は、椎名くんを中心に何度も転換する。椎名くんの元カノ「あたし」、椎名くんに憧れるサツキ、地味なクラスメイト新保くん、援交をするクラスメイトなっちゃん、椎名くんと同郷の南とあかね、椎名くんの妹の朝子。お察しの方もいるだろう。本作は『桐島、部活やめるってよ』と同じ構成をとる。透明な椎名くんを中心として現在と過去を描くのだ。
この映画が言いたかったことは、思い出は思い出のままで、かもしれないし、何者かになりたい人は何にもなれない、かもしれない。私個人としては、大切な誰かが歌っていた歌は大切でなくなっても忘れられない、かなとも思う。
今作で象徴的に用いられたのは長回しとフジファブリックの「茜色の夕日」だ。これこそ青春であるといわんばかりのプールでのシーンも嫌いではないが、私は断然ラストがこの映画の真骨頂だといいたい。
先日、今作のレビューをあさっていた際に「そこまで著名ではない本曲をなぜ登場人物皆が歌えるのかその意図が見えない」とのコメントを拝見した。何か明瞭な意図があるのではと監督のインタビューをさらったが、特にそんなことはないらしい。
ここからは完全に私個人の見解だが、「茜色の夕日」がその世代が全員歌えるわけでない名曲であることが、彼らがそれを歌う意味なのではないか。つまるところ、これは椎名君が口ずさんでいた曲なのだ。地元で全能的存在だった若い彼は、曲の意味を知らずにこの曲を口ずさみ、それが登場人物全員の高校時代を彩る。彼らの高校時代は椎名君を中心に回っていたのだから。大阪に出て、椎名君にとって「茜色の夕日」の意味が変わっても、彼に思いをはせていた彼らの「茜色の夕日」の意味は変わらない。彼らが曲の意味に気づくのは、色あせてしまった現在の椎名君に再会したその一瞬。彼らの青春が曇ったその刹那。
井の中だった椎名くんたちはきっと砂の数ほどこの世界に存在する。彼らの物語は描かれない。物語の主人公になれる人は確かにいる。それ以外の人はバイスタンダーではなく、物語のの外に置き捨てられる人物だ。しかし、苦みを伴うあの曲を聴いているものの5分だけは私たちこそが主人公なのだ。
そうして一人一人に脚光を向けるために、今作は群青劇として撮られたのか知れないが、いかんせん主役が多すぎた。橋本愛と門脇麦だけに絞れれば「青春てよかったね」なんて映画に受け取られないで済んだように思う。(らす)