Ni_bansenji

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語るタイプのオタクがおくるちゃんぽん感想文

もう二度と戻らぬ日がいつまでも

 

 映画館では口を開けていることが多い。小説や漫画を読んでいるときやドラマを見ているときはひそかに舌を噛んでいる。口を開けていると泣けないらしい。涙腺ゆるゆる人間からすると、口を開け続けるのはしんどいので、舌を挟むようにすると楽に止められるのでおすすめ。その姿がどれだけ間抜けであろうとも。

 先週、『花束みたいな恋をした』で舌を噛んできた。余韻を楽しみ和やかに話しながら出ていく人とは対照に、顔を隠しながら小走りで出ていったお兄さんは私の同類だと思う。

 ただ、この映画を泣けるとかエモいとかで終わらせたくないのです。舌を噛まずとも泣かずにいられる理由は絶対ある。だから、あのお兄さんも私もあんなに泣かなくてよかったんじゃないかなと思う。

 うん、どんどん「はじまりはおわりのはじまり」だとか「自分と相手は違う人間だ」なんてのを悲観する映画ではなかったと確信を持ち始めました。本稿は、その考えに至った理由をつらつらと述べ、最後にタイトルの意味を考察しようと思います。

 ありがたいことにはてなブログ公式さんから花束言及ブログとして選出いただきました!

https://blog.hatenablog./entry/2021/02/25/170000

 

 すみません、入れ忘れました。ネタバレ含みます。ご注意を。ラストのネタバレは入れてません。

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 前書きはさておき、カルチャーを中心に映画の核心に迫りたいけれど、きのこ帝国にもフレンズにも明るくないのでやめておきます。だから、以降ではイヤフォンの話と「花束みたい」って何のことだろうって話をしよう。

 

 まずは、イヤフォンについての話。

 映画は2020年の麦と絹がイヤフォンを分け合って音楽を聴くカップルに苦言(?)を呈そうとするシーンから始まる。そこで二人が発する「分けちゃダメなんだって、恋愛は」「恋愛は一人に一個づつ」とのセリフはこの映画の核を象徴するものであると思う。イヤフォンはその後も二人の関係性を示す存在としてほのめかされる。

 次にイヤフォンが出てくるのは、居酒屋のシーン。すぐにもつれるイヤフォンを示し合い、こんなところも似ていると強調しあう二人。その次はプレゼント交換のシーン。彼らは互いにBluetoothイヤフォンを贈る。ここまでのイヤフォンは二人を同じ存在として絡める役割を持つ。

 対して、ふたりがすれ違い始めた後のイヤフォンは遮断のために使われる。絹のゼルダのプレイ音を消すために仕事中の麦はイヤフォンを使う。そんな麦を見つめる絹の顔が忘れられない。互いに贈ったイヤフォンが一人になるために使われることのやるせなさ。

 そこからの彼らはことごとくすれ違っていく、昔のように趣味を共有したい絹は「学生気分」と麦にののしられ、これからのために働く麦は「なんでお金ばっかになるんだろ」と絹にこぼされる。今を楽しみたい絹だって、責任を感じる麦だってどちらが正しいとかないじゃないですか。二人が悪かったのは自分の理想を相手にとっての理想と思い込んでしまった、その一点だけ。

 その後もズレを感じるシーンは続く。葬儀後のシーンでは先輩にフォーカスを当て、二人の認識の差を描く。似ているところばかり探した二人はやはり別々の人間だったとつきつけられる。

 だから別れたのちに彼らが思うのは「恋愛は一人に一個づつ」なのだと思う。どんなに似ている二人でも、どんなに愛する二人でも、時間をかけて近づいたってふたりはひとつじゃない。彼らはもっと分かりあおうとする必要があった。それができなかったから、魔法にかけられた一人を二人に戻すのが二人の恋の終わりなのだ。

 だけど、2020年の彼らはまだお互いに贈ったイヤフォンを持って、同じカフェで、同じカップルに同じ感想を持ち、同じタイミングで立ち上がる。一人でいる時間を作ったイヤフォンが再び二人を繋ぐ。違う人間だって気づいたのにそれでも二人は似てしまう。それは感性が似ているからではなく、同じ時間を過ごしたからだと思う。同じタイミングで前を向いたまま手を振ったのもそう。別れてしまったってあの5年を悔やまなくていいし、やり直そうとする必要も、なかったことにする必要もない。あの頃、気が合う人がいて、最後はうまくいかなかったけれどそれまでは楽しかった。そんな風に振り返ればいい。

 

「楽しかったことだけ思い出にしてしまっておくから」

 これが花束の正体だ。映画を観終わったときはドライフラワーにもできず、剪定して花瓶に飾ることもできない一瞬が花束なのかもしれないとか、いろいろ考えたけど、やっぱりそれは違うと思う。きっとこれに違いない。

 観終わった時はスピッツの「アパート」を聴きながら帰ったけど、きっとこの映画に近い曲はアジカンの「触れたい確かめたい」か星野源の…。いや、やっぱり教えられません。思いついた人がいたらそっと教えてください。その時は分身なんて思わずに大事にします。

 

 

追記

 

 文中の「時間をかけて近づいたってふたりはひとつじゃない」というフレーズはズーカラデルというバンドのころがるという曲の歌詞です。引用表示を避けてしまい申し訳ございません。

 

 映画の中では麦が絹の言葉を巡らせながら、舞い上がっていくシーンが好きです。あなたが好きよりもあなたの作品が好きの方がずっと素直に受け止められる気がするので。思ったよりもviewが伸びた感謝の代わりに。

 

 「花は毎年必ず咲きます」な呪いをかけないシーンも良かったですね。ただマーガレットってそれっぽい花言葉がないんですよ。この花がもしゆうなだったら咽び泣いたと思います。

 

 あと、最後に一つ。

 趣味の話をできる人が周囲からどんどん減っていく、なんて感想を見て映画を見に行ったんですが、これにも異議を唱えたい。

 2020年の麦の首元にはイヤフォンがかかったままだった。音楽を楽しむ余裕ができたんだなと思った。日常にすり潰されて、羊文学だとか新しいものが追えなくなったってカルチャーは楽しめる…と信じたい。