Ni_bansenji

Ni_bansenji

語るタイプのオタクがおくるちゃんぽん感想文

「かつての」を抱き、いきる

 

人はいさ 心も知らず ふるさとは

花ぞ昔の 香ににほひける

 

 柄にもなく和歌から書き出させて頂こう。古今集から作者は紀貫之だ。有名な歌であるので蛇足とは思うが、人の心はわからないが、ふるさとは昔のままといった意味であることを説明させていただく。

 歌の通り人の気持ちは移ろいやすい。大切でたまらなかった人がふとしたきっかけで疎遠になったりする。人は気づけば変わってしまうから、「かつての」という形容詞がつく人ばかりが増えていく。冒頭にはふるさとは昔のままとあるが、今の時代そういう訳にもいかないだろう。人も町も時間とともに元の形を失っていく。人生において得るものよりも失うものの方が遥かに多いと齢20にして考える。

 

 さて、先日三浦しをんの『ののはな通信』を読んだ。本作はこれから長らく私が一番好きな本として挙げることになるだろう。本項ではその感想をあげたい。

 しをんさん(以下以上敬称略)の小説には失ったものが色濃く現れる。そして毎度深い穴を心にあけてくれる。しかし彼女はそれを埋め直す優しさを持っている。…気がする。

 

『ののはな通信』は本年の5月に三浦しをんが出版した500ページ弱の書簡小説だ。本書のあおりは<震えるほどの恋の記憶を抱き 私たちは、生きる>だ。

 

 内容に触れる前に書簡という形式について書きたい。本作は2人の女性の直情を繊細に描く。これを描ききるには書簡形式が最適なのである。これ以上に複数の気持ちを長いスパンで描ききる書き方があるだろうか。一人称をひとつだけ使って書いても相手の心情を動作から伺うことが出来る。しかしそれでは足りぬこともある。思っていることを全てセリフとして書けばくどい。一人称を章ごとに交換するやり方もあるがそれではシーンごとの双方の心情がわからない。

 その全ての問題は手紙の形にしてしまえば片付くのである。思いの丈は全て手紙で書くことが出来る。消印の日付は日数の経過を明確に表わし、署名は決意を表す。その上、三浦しをんは書簡上に情景までも浮かばせる。舌を巻かざるを得ない。

 

 それでは軽くあらすじを紹介しよう。

 今作の舞台は横浜山手の女子高、聖フランチェスカから始まる(石川町のくだりと響きからフェリス女学院だろう)。主人公は野々原茜(のの)と牧田はな(はな)。ののは賢く大人っぽく、気高い委員長で、はなは天真爛漫な帰国子女だ。新刊紹介にも書いてあるのでネタバレにはならないだろう。書かせてもらう。ののは密かにはなに対して恋を抱き、それは奇跡的に成就する。しかし、彼女らの関係はある揺らぎによって終焉を迎える。それでも物語は終わらない。本作は1985年から徐々に現代へと近づいていく。高校生だった彼女らは大学生になり、それからずっと大人になっていく。

 

 つぎに本作で私の好きなフレーズをご覧頂きたい。変わりゆく互いを嘆き、終わった恋に焦がれる、私の好きな成分を存分に含んでいる作品だとご理解頂けるだろう。

 最も好きなフレーズはここには書かない。ご自分の目で確かめていただきたい。

 

幼い恋だとわらうひともいるかもしれないけれど、私にはすべてだった。

 

何かが終わり、変わっていく予感がするけれど、この予感はきっと外れる。変わりそうで変わらないまま、きっと日常はつづくんだ。

 

私たちはどんどん変わっていってしまう

 

どうして言葉なんてあるんだろう。友情とか恋愛とか、男とか女とか、言葉はなにかを区別し、分断するためにあるとしか思えない。

 

私ほどあなたの幸と不幸をねがうものはいるまい。あなたをなによりもだれよりも大切に思い、あなたの幸せを祈る者がいること。


  この物語の何が素晴らしいかといえば、懇切丁寧に別れのあとを描いた点だろう。しかも、その別れは1度ではない、幾度もだ。さらにこの物語を至上のものにするのは、別れたあとの彼女たちの思いが執着にとどまらない点ではなかろうか。島本理生の『ナラタージュ』は終わった恋に「最初で最後のさようなら」をする物語だ。それに対して今作の彼女たちは終わった恋を次第に厚く、穏やかに作り上げていく。2人で思い出を削り出していく作業を1冊のうちにするのだ。

 

 冒頭にあったように、彼女たちも変わらない日常の中で時間をかけて変わっていく。互いに対する想いも自身も変わっていく。それでも彼女たちの関係は時を経るごとに深いものになっていることが伺える。なぜなら、彼女たちの文体が最も似通うのは後年だからだ。

 

 仕草や口調は愛した人の分だけ蓄積され、それは時が経ってもどこかに残るのなら、移ろいやすい日々の中で最も変わらないのは実は人なのかもしれない。

 

 

過去よりたった今までを~RTCT②~

 

RADWIMPS Road to Catharsis Tour 6/19横浜アリーナ 私的感想文の掲載に当たって

 

私のことを知らない方は最後のRADWIMPSは前を向くのみを読むことをおすすめします。これはレポートではなくエッセイに近いです。

 

書きすぎた。前回の更新を見ての率直な感想だ。筆者は、ライブが終わった後に同じライブに言っていた人の感想をツイッターで探すことを好む。その日が過ぎても、その後一週間は同じことをする。もはや趣味といっても過言ではない。とりわけ好きなのは、MCを書いてくれる方。しかし、そのMCは飛び飛びで別の人が書いていることが多く、探すことが非常に困難だ。また、プロのライターさんが書いているものは非常に刺激的で興奮がよみがえるが、様子は一部しか抜かない。それでは筆者は満足できない。そこで筆者は思いついた。演出も主観もオーディエンスの反応も、MCもとにかくすべてひっくるめて私が書けばいいのだと。映像化されない公演なら、読んでそれが浮かぶほど詳細に書いてやろうと。そうして書き起こされたのが、「ド・ド・ドーンのすべてを語る」だ。大変な文字数になり、書いては削りを繰り返すうちに相当に時間がかかってしまった。その反省を踏まえたうえで今回のRoad to Catharsis Tourのライブレポートを書いたつもりが、まさかの前回に比べて1000文字オーバー。大学で3000字のレポートに苦しんでいるのはどこの誰だかわからない。正直に言うと、今回のレポートで書きたかったことは最後の1000文字だ。ただあんな長文を読む人がいるだろうか。否、筆者のみだ。そのため、筆者の素顔を隠した(そのつもり)普段と趣向を変え、今回は地で前回のレポートの要旨をまとめる。つまり、これは私の私による私のための前回レポのリライトだ。7000文字読んでくれる愛する変わり者はそちらを読んでくれたまえ。

 

追記:誰だ今回は短いと言ったのは。結果4000文字になってしまったことを謝罪する。

 

RADWIMPSは走り続ける ついでに私も走り続ける

RADWIMPSは近年新しいことに取り組み続けている。タイアップの書き下ろし、映画主題歌、テレビ出演、打ち込みの多用、挙げればキリがない。彼らはいつでも前も向き、走り続けている。6月19日当日、奇しくも私も走っていた。その日の私のスケジュールは2時半まで授業を受け、3時頃グッズを買いに行き、余裕を持ってライブに臨む...はずだった。タオルを持ち、ラバーバンドを持ち、Tシャツを私服として着て準備万端の私は痛恨のミスを犯す。当日着用するために買った『カタルシスト』のバンダナがない。私の地元は神奈川だ。実家から横浜アリーナまで往復2時間ほど、大学から横浜アリーナまでは片道30分。これなら懸命に走れば取りに帰れる。売り切れが早いと噂のラバーバンドを買い、そのうえバンダナを取りに帰宅するタイムレースが始まった。大学から駅まで、新横浜から会場まで走る。友人のラバーバンドを代行し、自分用のグッズを会場引き換えで受け取り、リハーサルを聴いてしまいネタバレを食らいショックを受けつつ新横浜へ戻る。この間驚異の40分。開演まであと2時間ほど。チケットはRADWIMPSのライブに不慣れな友人が持っている。気分は走れメロスだ。ぐっしゃぐしゃになりながら、どうにか私は開演に間に合うがもうすでに疲労困憊。ライブは地獄だった。

 

RADWIMPSが潰しにかかる 私はついにダウンする

「AADAAKOODAA」から始まるライブは予想外。ちなみに私は今ツアーが始まってからTwitterでネタバレをするアカウントを片っ端からリムーブしている。どうせ一方通行だから構うまい。ちなみに、RADWIMPS公式Instagramの投稿も見ていない。そのためすべての曲が予想外...嘘です。実は「HINOMARU」の紙テープと「やどかり」についてネタバレを食らったため完全防備の体制を取りました。ちなみにリハで聴こえてしまったのは「One man live」素直に驚きたかった...。

ともかく「AADAAKOODAA」時点で私がいたのはBブロック花道の最前から4列目。サイレンが眩しく目が開けられないでいると、メンバーの入場が始まった。初めてのくわちゃん側、よーじろは前の人で見えず、愛する武田も全く見えず。オープニングからかますなぁと思いながら必死でレスポンスをした。1曲ずつレポートしたいが、それは7000字の方で書いたので今回はなし。初めて生で聴く曲は「One man live」「やどかり」「カタルシスト」「HINOMARU」「洗脳」「セプテンバーさん」だ。今回は以上の思い入れの強い曲について語る。

「One man live」イントロの勢いのある青臭さにガツンとやられた。この曲は私の中学二年生を彩る曲。何度勇気づけられ救われたか分からない。私が勝手にこの曲と対になると思っている"魔法鏡"もいつかライブで聴きたい。

「やどかり」言うまでもない智史の曲。これは彼がいないと成立しないと思っていた。楽しそうにドラムを叩く刄田さんとみっきー、おどけて行進のように足踏みする桑ちゃんを見て目頭が熱くなる。3人足してやっと智史が見えた。

カタルシスト」炎の演出に驚愕。サビのクラップで心酔。最新曲はなぜこんなにも心をくすぐるのか。メンバーもなれていなそうな曲は素敵だ。ライブバージョンってなんてかっこいい。疾走感に溢れていた。

「洗脳」アレンジに痺れた。イントロでえっこの曲知らないと思った。長調の不協和音。そこから突然始まるトーキングロック。バックスクリーンに移された文字の洪水と血のような赤。そう、RADWIMPSのイメージはこの毒々しい赤と爽やかな青。青のイメージだけ押されちゃ困るぜ。原曲に忠実だとか、音源で聴くまんまよりも私は以上を好む。それを十分に満たすボーカルメロディーのアレンジ、大満足。

HINOMARU」これについてはもう語ることは無い。MCは福岡公演が一番熱かった気がするなぁ。自分の考えはリベラルであることを述べ、曲を作ったことでなく、悲しませた人がいることに謝罪する、いい形だと思った。...実は横アリでこれよりあとのMCはあまり聞けていない。走り回った私はなんとここで貧血による立ちくらみに襲われる。RADWIMPSと共に最高のボルテージで走り抜けたかった。

「セプテンバーさん」一番好きな曲は?と言われればこれを答える...のではないか。正直迷って答えられないと思う。では、一番行きたかったライブは?と聞かれれば問答無用で青とメメメだ。"Oh セプテンバー"がやりたくてたまらなかった。大満足。くわちゃんのギターのボリュームをゆっくり絞るよーじろーに2人のつながりの強さを感じた。悶絶。この時には立ちくらみはすっかり治りました。

 

RADWIMPSは前を向く つられて私も前を向く

 

本ツアーは「アルバムツアーではないから普段やらない曲を」をコンセプトにしたライブだ。アンコールの「セプテンバーさん」が今ツアーを至高のものにしたのは間違いない。また、私には「One man live」が効いた。必死になってアルバムを揃えたあの時期を思い出した。やはりどんな形になっても彼らは私のヒーローに違いないのと再確認した。

ただ、このツアーで言及するべきは「やどかり」と「前前前世」が演奏されなかったことではなかろうか。昨年のツアーでアルバム未収録の曲が演奏されたのは1曲のみで「ハイパーベンチレイション」だった。本ツアーでは「洗脳」と「やどかり」がそれにあたる。長年RADWIMPSを愛してきた人ならわかるだろう。ファンアートで著名なとぅじ氏が日頃主張しているように、「やどかり」は山口智史(Dr)の曲だ。公式で作詞が作曲がと言われている訳では無い。ツアー『絶体延命』でドラムセットを背負い、マーチングのようにチンドン屋のようにおどけて行進してみせた彼の姿が忘れられないのだ。

RADWIMPSが3人になって初めてのワンマンライブ「RADWIMPSのはじまりはじまり」のアンコール曲は「お風呂あがりの」だった。この曲はドラムを使わないアコースティック仕様だ。その曲を演奏する彼らを見て、彼らは智史を待っていると思った。そのように「やどかり」は3人になってから今ツアーまで1度も歌われていない。

RADWIMPSのHESONOO』をご覧になっただろうか?「つながりを断ち切って人は生まれてくるんだよ」をキャッチコピーにしたこのドキュメンタリーのテーマは「優しい嘘」だ。10周年の期間中つき続けた彼らの優しい嘘は山口智史の無期限休養だ。そう、演奏できない彼は休養よりも脱退に近い。文字にすると口にすると実現しそうでずっと言えなかった。あえて言おう。彼が帰ってくる可能性は限りなく低い。

上記の2点を知った上で聴く「やどかり」は永久欠番を埋められたような悲しさだった。智史は戻ってこないと突きつけられた気がした。しかし、それを悲観してはならない。筆者が行った横浜アリーナの1日目に智史が来ていたという噂がある。二人の子供を連れて笑っていたと。智史が見ている公演で「やどかり」を演奏する。これは3人が前を向いたことの象徴だ。彼らは言っていた「智史がいないことを前向きに捉えたい」と。ドラムスがいないから、打ち込みを試すのだと。私はそれを信じられなかった。追悼のように(不快に思う方がいたら申し訳ない)歌われる「お風呂あがりの」があったからだ。しかし、本公演で「やどかり」は演奏された。彼らは進まなければならない。智史がいない間も「RADWIMPS」を保つために。その名を廃れさせてはいけない。いつまでもトップを走り続けられるように。それを彼らはついに実行した。「俺らなら大丈夫」と聞こえるような気がしたのだ。

また、本公演では今や彼らの代表曲となった「前前前世」が歌われなかった。「『君の名は。』の曲は1曲も演奏しないつもりだった」と語る彼らが選んだ曲は「スパークル」だった。新規のファンはきっと聴きたかっただろう「前前前世」が演奏されなかったのはなぜだろう。それはRADWIMPSが『君の名は。』の1発あたりではないことを示すためだ。『君の名は。』フィーバーは終わった。このまま「前前前世」を歌い続ければ彼らは『君の名は。』の遺物になってしまう。彼らはそれを避けた。現在のRADWIMPSとそれ以前のRADWIMPSをフルに発揮することで。私は懐古厨だ。RADWIMPSは変わった。近日私はそれしか言わなかった。しかし、自明ながら現在のRADWIMPSは過去の彼らの積み重ねなのだ。過去だけでなく、過去からたった今、現在のRADWIMPSまでを愛せ。

繰り返しになるが、彼らは今ツアーで「やどかり」を演奏し、「前前前世」を演奏するのをやめた。それは彼らが前を向き、なおかつ進むためだ。彼らは留まることをしない。それは同時に変化していくことを表す。彼らは変わり続ける。私たちはそれを見届けなければ、一生お前についてくと言わされたのだから。

 

Road to Catharsis ~それでも彼らは進む~

Road to Cathars Tour 2018 6月19日
横浜アリーナ1日目公演7500字レポート

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昨日、横浜アリーナにてRADWIMPSのツアー「Road to Catharsis Tour 2018」が行われた。

熱気と興奮そして愛に溢れた本公演はRADWIMPSの新章と呼んで遜色ない。彼らはまた前へと進んでいった。そのライブの模様を存分に語りたい。本稿はセトリ・演出のネタバレを含む。まだツアーに行っていない人はお引き取り願いたい。こんなものを読まない方がずっと楽しめる。また、ライブに熱中したあまりMCのタイミングが分からなくなってしまった。誤った場所に挟んでしまっている恐れが大いにある。ご容赦願いたい。

 

さて、筆者は年に10回以上ライブに行く。筆者をライブ狂にしたのはどう考えても10周年記念公演「RADWIMPSのはじまりはじまり」の影響だろう。あれは本当に素晴らしかった。筆者は未だにあれを超えるライブを見たことがない。しかし、今ツアーは非常に「RADWIMPSのはじまりはじまり」に近かった。「RADWIMPSのはじまりはじまり」に続くRADWIMPSの2つ目の切れ目。スタートとゴールになっただろう。

 

開演は7時。暗くなった会場が赤く染まる。花道が持ち上がりその下のガラス張りにサイレンが回転する。オーディエンスの絶叫とともに始まったのは「AADAAKOODAA」中心に野田洋次郎(Vo)、ステージから見て右に武田祐介(Ba)、その後ろに森瑞希(Dr)、ステージから見て左に桑原彰(Gt)、その後ろに刄田綴色(Dr)が位置する。洋次郎(愛をこめてこう呼ぶことを本項では許して欲しい)の衣装はコラージュしたようなものだ。背中には昨年のHuman Bloomを彷彿させる青地に赤い花が描かれている。桑原の衣装は銀色のギラギラしたパーカー・カーキーにストライプのスラックス。武田の衣装はストライプのロング丈オールインワン。毎度思うが、桑ちゃん(愛をこめてこう呼ぶことを本項では許して欲しい)の衣装は跳びやすいように、武田(愛をこめて...以下略)の衣装は回ると綺麗に見えるように作られている点が憎い。動きにあった衣装を着ている彼らは普段にもまして輝く。ツインドラムの森瑞希(Dr)は昨年通りボタンのシャツ、刄田綴色は青い半袖のポンチョを着ている。刄田の髪が金髪になっていることに驚いた。演奏中、野田はオーディエンスを盛大に煽る。「そんなもんか横浜!」との叫びにボルテージは最高潮に。

オーディエンスの熱狂が冷めぬまま始まったのは「One man live」青い会場に白い光線が飛んでいく。久しぶりに披露されるこの曲にオーディエンスは絶叫する。まさかこの曲をやってくれるとは。嘘です。セトリは見ないようにしていましたが、実は会場引き換えの際に筆者は聞こえてしまっていました。

続けて三曲目は「ます。」いつもより早い段階で演奏されるアンセムに会場が跳ねる。もちろん桑ちゃんも跳ねる。衣装をギラギラさせながら。そしてMCへ。「こんばんは。RADWIMPSです。」という挨拶から始まり、ホーム横浜へただいまと声をかける。会場からは温かなお帰りの声。前回のツアーから1年しか経っていないこと。アルバムツアーは2.3年空けてしまうため、今年の一月に今ツアーは急に決まったこと。そのため1ヶ月になった公演は平日が多くなってしまったこと。それでもこんなに多くの人が来てくれたことが嬉しいということ。「このツアーがすごく楽しくてあと30公演ぐらいやってたい。その分をここで出し切ってもいいかの?横浜!」との野田の煽りを熱気が飲み込んでいく。

アップテンポが来るかと思いきや続いての曲は「ふたりごと」ブレスが聞こえるほどの静寂と沸騰。そして定番の「遠恋」目玉の感想アドリブでは洋次郎が桑原の頭をシャンプーでもするようにワシワシする。頭をつかまれる桑原はそのまま跳ねる。期待していた武田の頭を上下に振る洋次郎は見ることがかなわなかったが、良しとしよう。定番化し始めたドラムのバトルは森のテクニカルかつスピーディーなドラムに、刄田は片方のスティックを口にくわえたまま片手でのパフォーマンスで応じる。続けて「俺色スカイ」ではバックスクリーンが青空に変わり、マイクを持った野田が中心から左方向へ、右方向へと徘徊し始める。夕方、夜空へと曲とともに移り変わるスクリーンと"Please Please"の大合唱、そして野田の声。ほっこりしつつ興奮するオーディエンスの目は、演奏後に花道に向かう野田へ。花道に運び込まれたのは大太鼓。そして演奏されたのは「やどかり」これまた久しぶりに演奏された曲に泣き出す人、雄叫びをあげる人。アコースティックギターに持ち替えた桑原はおどけて足踏みをする。森が首を振りながら叩くドラムがなんて生き生きしているか。そして野田が叩く太鼓の音を残して曲が終わる。続いて演奏されたのは「揶揄」バチを起き、ピアノの前に座る野田の手元から武田のベースからジャジーな音がこぼれる。バックスクリーンには楕円のテレビが砂嵐を映す。"198603345年×お前(アホ)= そう、eternally
日本語に訳すと要するに人間になるのは 無理"
はバックスクリーンに文字が流れ歌われなかった。ここで二回目のMC、ドラムス紹介。マイクをとったのは桑原。「それではここでドラムスを紹介したいと思います。ベース武田側、森瑞希ー!」「ギター桑原側、刄田綴色ー!」刄田綴色の金髪に触れ、「刄田さんは今日髪を切ってきました!」との紹介にかわいいー!と声が上がる。刄田は顔を引き締めながら、サイドの刈り上げを見せる。そして、話題はくわバーガーを肉々しいと評した森をいじる方向へ。桑原曰く、武田は世界で十番内に入る優しい人だそうだが、森瑞希に関しては厳しいらしい。油物が苦手な森に粉落としの豚骨を勧めたそう。若い頃と変わらない武田の食へのこだわり(筆者はその土地に行って名物食べるのって大事だと思う)にほっこりした。会場からは「パワハラです!」との声。それに対する武田の顔をクシャッとするおじいちゃんスマイル。ここで空調を気にして、武田と桑原の会話を聞いていなかった野田が乱入。空調やラーメンについて少し語って内輪ネタを終わらせる。初めて俺らのライブに来た人との問いにチラチラ上がる手を見て、「昔の曲ばっかでごめんね、これから知ってる曲出てくるからさ」と語る。

野田の言葉の余韻が残ったまま彼はピアノを弾き始める。演奏されたのは「秋祭り」最後の1音をアリーナに残したまま始まったのは「スパークル」暗いステージに5本のカクテルライトが灯る。本来なら三葉が死ぬシーンから、2度目の彗星が降るシーンまで飛ばすセットリストが恐ろしく美しい。暗く静かな会場にステージ側から星を模した光が漏れる。刄田の鈴もさる事ながら、微動だにしない桑原も見どころのひとつ。ここで3度MC。マイクを握るのは我らが武田。「楽しんでますか横アリ!」との既視感。なんと彼のMCは昨年とほぼ変わらず。「最後までよろしくー!」とのほぼ毎日聞いている叫びに苦笑してしまった。一息つき落ち着いた武田は「このステージに立って11年になります」と淡々と語る。「二重人格か!」との野田の苦笑に笑いが起こる。野田は「いつかみんなで横アリでワンマンやろうねって話してた。横浜はホームで横アリは聖地。」と2007年のセプテンバーまだじゃんについて語る。続けて「今はいないけど智史と初めてあったのも横アリ。高校生の時に大会に出ていて...。」とYOKOHAMA HIGHSCHOOL MUSIC FESTAについて語る。そのライブ来てた人!との声に予想よりもはるかに多い手が上がるを「もうほんと横浜は嘘つきばっかり。生まれてないでしょ?」と軽口を叩く。一体野田はオーディエンスをいくつだと思っているのか。ついでに今日誕生日の人と15歳の人、関東以外から来た人を聞く。続いてマイクは桑原へ。くわバーガーについて話し、1時間ほど彼がバイトリーダーをしていた間に50代だけど大丈夫?と声をかけられたことを話す。「自分で言うのもなんですが、世代を超えてに愛されてると思います!」と微笑む。グダグダのMCを野田が断ち切り、続いての曲へ。後半戦の始まりは「おしゃかしゃま」本公演は野田が花道に出てくる回数が圧倒的に多い。その度にオーディエンスのボルテージは上がる。しかし、本曲での歓声は段違い。なんと花道に野田・桑原・武田の3人が揃った。サビの"言うんだ""いいんだ"では会場全体が吠え、"ふたつ合わさって無茶苦茶にしよう""ふたつ合わさって有耶無耶にしよう"では会場全体が跳ねる。続いてラップに使われるブーンという重低音が響く(ごめんなさいなんて言うのか分かりません)「カタルシスト」低音とともに野田の背後に火の玉が舞う。静かな沸騰のイメージにぴったりな演出だ。本公演で初めて生で聴くオーディエンスが多いだろうに、サビのクラップは自然と始まり、一体感を見せる。曲が終わると、野田はピアノの前へ。不安を煽るようなピアノサウンドに戸惑いつつ耳を傾けていると始まる「洗脳」なるほど、これのアレンジだったのか。白地に黒のマーブルが動き回る映像をバックに桑原のギターが歪む。山口のドラムのサンプリングを使用していたというドラムは本日はツイン。野田は階段に座りながら歌う。随分とメロディーのアレンジが目立つ、またアウトロが長い、なかなかふっと消えない。チロチロと音をくねらす桑原が花道に立つ。オーディエンスが桑原に集中しきるとふっと音が消えた。

曲が終わると後ろから大きな歓声がする。なんと野田はバックステージに移動していた。ピアノの前に座った野田が「どう?後ろの方?ちゃんと届いてる?上の方も届いてる?」と確認し、2言ほど話したあと始まったのは「週刊少年ジャンプ」残念ながら前方からはそのシルエットしか見えず...。本日4度目のMCの話題は「HINOMARU」について。「あんなふうにも利用されやすいものなんだと思った。」と言葉少なに野田は語る。「俺はアメリカの小学校に通って、ある日急に連れていかれて、毎朝さ、I pledge allegiance to the Flag of the United States of America,って言うんだよ。俺はそれで英語を覚えた。それで日本に帰ってきて小学校行ったらそんなものどこにもなくて。それってなんだかいいなぁって思ったんだ。」「俺にとって母国は一つだけだから。それについての気持ちをまっすぐ歌おうと思った。俺の考え方はさ、そんなにどっちって決まってないから。」と自分の思考はあくまでリベラルであることを伝える。そうして始まった「HINOMARU」彼はまっすぐ前を見て、優しい目で歌った。武田はステージ歌詞をくちずさむ。圧巻だったのは刄田のドラム。心音のようなバスドラムが胸に迫る。「歌って」との野田の声にオーディエンスのコーラスが入る。歓声とともに曲は終わった。そして野田は、ステージに帰る。Aブロックの右側とBブロックの左側、その後方ブロックのみが彼とハイタッチできたよう。続けて本日5度目のMCが野田の口から。「残すところ3曲になりました」との声にブーイングが飛ぶ。すかさず、「はい。あと一曲になりました」との返答。会場から溢れるやだーとの声に微笑む野田。「大丈夫?まだまだ行ける?じゃあ一緒に歌ってください」との声で始まったのは「トレモロ」"満天の"から横アリ17000人が合唱する。青く光るステージポツポツと星を模したライトが光る。静かな興奮が収まらぬまま、武田が腕を高くあげ、クラッブを始める。続く曲は「いいんですか」スクリーンには会場が笑顔の会場が映される。ここでも「歌って」という野田に答え、レスポンス以外にもワンコーラス。恒例の「愛してるよ」に会場が沸く。野田のギターの音の余韻に浸っていると、リズミカルなドラムサウンドが始まる。お馴染みの水色のギターを持った野田とオーディエンスの「へーホー」のレスポンス。そう始まる曲はもちろん「君と羊と青」"はい はい"との煽りが心地よい。もう一回は本公演では演奏されることがなかっさ残念...。

終演の拍手はたちまちもしもコールに。開演前から呼びかけられていた無点灯は実行されず、アリーナはライトで覆われた。禁止されてないからいいのではとの指摘もあるが、筆者は真っ暗になった会場で歌われるもしもを愛しているため、少しショックだった。ともあれ3分ほど経った後、メンバーが再びステージへ。桑原は青のユニフォームTシャツ、武田は白のユニフォームTシャツを着ていた。オーディエンスを見た野田は「ちょっと待って、決めてきた曲があるんだけど変えるかも」と言い、ピアノ曲ほかの曲かどっちがいい?との問いにどっちもー!と声が上がるか。「欲張り〜じゃあどっちもやりません」と笑う野田。欲張りと言ったり、嘘つきと言ったり今夜の彼はかなりリラックスした印象だ。「じゃあ以上って曲やる?」とコードを抑え、ワンストローク。会場がわくため、そのやりとりを数度してから野田は「こっちの曲の方が喜んでもらえると思って、俺らからみんなへプレゼントとして受け取ってください」と曲紹介をする。野田のギター1本から始まったのは「セプテンバーさん」予想外の曲に会場からは悲鳴が上がる。繊細な手つきに神妙な顔つきの桑原と衣装をひらひらさせながらクルクルまわる武田。恒例の"Oh セプテンバー"のレスポンスも綺麗に決まり桑原のギターのボリュームを野田がゆっくりと下げていく。沸く会場に野田は「歌う曲と騒ぐ曲どっちがいい?」と問う。オーディエンスの選択は騒ぐ曲。「会心の一撃」が始まる。武田と桑原は駆け回り、中央で交差する。野田の歌詞の間違えが目立ったが、それだけ興奮してくれたのだろう。"世界 世界"に合わせて「跳べ!」との野田の指示に会場が跳ねる。定番の「幸せになれよ!」に会場が吠える。野田・桑原・武田がジャンプして曲を占める。メンバーが礼をする。武田のお辞儀はいつ見ても綺麗だ。「また会おうね」と野田が去り、本公演は終わった。

 

本ツアーは「アルバムツアーではないから普段やらない曲を」をコンセプトにしたライブだ。アンコールの「セプテンバーさん」が今ツアーを至高のものにしたのは間違いない。

ただ、このツアーで言及するべきは「やどかり」と「前前前世」が演奏されなかったことではなかろうか。昨年のツアーでアルバム未収録の曲が演奏されたのは1曲のみで「ハイパーベンチレイション」だった。本ツアーでは「洗脳」と「やどかり」がそれにあたる。長年RADWIMPSを愛してきた人ならわかるだろう。ファンアートで著名なとぅじ氏が日頃主張しているように、「やどかり」は山口智史(Dr)の曲だ。公式で作詞が作曲がと言われている訳では無い。ツアー『絶体延命』でドラムセットを背負い、マーチングのようにチンドン屋のようにおどけて行進してみせた彼の姿が忘れられないのだ。

RADWIMPSが3人になって初めてのワンマンライブ「RADWIMPSのはじまりはじまり」のアンコール曲は「お風呂あがりの」だった。この曲はドラムを使わないアコースティック仕様だ。その曲を演奏する彼らを見て、彼らは智史を待っていると思った。そのように「やどかり」は3人になってから1度も歌われていない。

RADWIMPSのHESONOO』をご覧になっただろうか?「つながりを断ち切って人は生まれてくるんだよ」をキャッチコピーにしたこのドキュメンタリーのテーマは「優しい嘘」だ。10周年の期間中つき続けた彼らの優しい嘘は山口智史の無期限休養だ。そう、演奏できない彼は休養よりも脱退に近い。文字にすると口にすると実現しそうでずっと言えなかった。あえて言おう。彼が帰ってくる可能性は限りなく低い。

上記の2点を知った上で聴く「やどかり」は永久欠番を埋められたような悲しさだった。智史は戻ってこないと突きつけられた気がした。しかし、それを悲観してはならない。筆者が行った横浜アリーナの1日目に智史が来ていたという噂がある。二人の子供を連れて笑っていたと。智史が見ている公演で「やどかり」を演奏する。これは3人が前を向いたことの象徴だ。彼らは言っていた「智史がいないことを前向きに捉えたい」と。ドラムスがいないから、打ち込みを試すのだと。筆者はそれを信じられなかった。追悼のように(不快に思う方がいたら申し訳ない)歌われる「お風呂あがりの」があったからだ。しかし、本公演で「やどかり」は演奏された。彼らは進まなければならない。智史がいない間も「RADWIMPS」を保つために。その名を廃れさせてはいけない。いつまでもトップを走り続けられるように。それを彼らはついに実行した。「俺らなら大丈夫」と聞こえるような気がしたのだ。

また、本公演では今や彼らの代表曲となった「前前前世」が歌われなかった。「『君の名は。』の曲は1曲も演奏しないつもりだった」と語る彼らが選んだ曲は「スパークル」だった。新規のファンはきっと聴きたかっただろう「前前前世」が演奏されなかったのはなぜだろう。それはRADWIMPSが『君の名は。』の1発あたりではないことを示すためだ。『君の名は。』フィーバーは終わった。このまま「前前前世」を歌い続ければ彼らは『君の名は。』の遺物になってしまう。彼らはそれを避けた。現在のRADWIMPSとそれ以前のRADWIMPSをフルで発揮することで。

繰り返しになるが、彼らは今ツアーで「やどかり」を演奏し、「前前前世」を演奏するのをやめた。それは彼らが前を向き、なおかつ進むためだ。彼らは留まることをしない。それは同時に変化していくことを表す。彼らは変わり続ける。私たちはそれを見届けなければ、一生お前についてくと言わされたのだから。

 

セットリスト

  1. AADAAKOODAA
  2. One man live
  3. ます。
  4. MC
  5. ふたりごと
  6. 遠恋
  7. 俺色スカイ
  8. やどかり
  9. 揶揄
  10. MC
  11. 秋祭り
  12. スパークル
  13. MC
  14. おしゃかしゃま
  15. カタルシス
  16. 洗脳
  17. MC
  18. HINOMARU
  19. MC
  20. トレモロ
  21. いいんですか
  22. 君と羊と青

 

En.

  1. セプテンバーさん
  2. 会心の一撃

 

 

 

 

 

3つの雨上がりとRECの行方

本稿はネタバレを含む。

 

さて、昨日は映画『恋は雨上がりのように』の公開初日であった。筆者は、公開初日に横浜ワールドポーターズで本作を鑑賞した。言わずもがな原作で2人が映画デートする場である。筆者は、映画化されるものの殆どに対して「原作が一番」と声を張り上げる害悪であるが、本作は声を大にして言おう「この構成はすごい」原作を未読の方も既読の方も本作を見るべきである。永井組は本当に素晴らしい。

本稿では、映画・原作・アニメの『恋は雨上がりのように』について比較し考察を行う。それに付随し、冒頭では映画のロケ地について触れさせていただきたい。

 

まずはロケ地について語る。呆れられそうだが、本作は筆者得というレベルで知っている場所しか出てこない。

最初に挙げるのは、オープニングでの杉田駅付近と港南台さえずりの丘公園である。(杉田駅付近の場所提供をしてくれた筆者友人に感謝)f:id:rasuno_nibannsennji:20180525233634j:imagef:id:rasuno_nibannsennji:20180525233650j:imageデートのシーンは原作通りの桜木町駅で待ち合わせ、図書館は原作では横浜中央図書館を使用しているが、映画では神奈川県立図書館を使っていた。f:id:rasuno_nibannsennji:20180526000351j:image(http://hamarepo.com/story.php?story_id=1549より借用)f:id:rasuno_nibannsennji:20180526000156j:image(http://hamarepo.com/story.php?story_id=1549より借用)店長がお見舞いのためあきらの元へ来る時のファミリーレストラン桜木町のジョナサンであると信じたい。

店長とはるかが鉢合わせるシーンではB&D渋谷店がでてくる。内装、ショーウィンドウの外に渋谷のハチ公バスが通っていたため間違いない。はるかが眺めるのはナイキズームフライである。原作ではニューバランスらしきものを持っていたためこちらの方が現実味が強い。(https://www.bnd.co.jp/shop_detail/sibuyaより借用)。f:id:rasuno_nibannsennji:20180525234115j:imageはるか率いる風見沢高校とみずきの南高(映画では南女子高校になっていたが、中高一貫ということで横浜市立南高校ではないかとの指摘を頂いた)が合同練習を行っていたのは上柚木競技場。(http://map.tokyofootball.com/hachiojikamiyugi/より借用)

f:id:rasuno_nibannsennji:20180525233555j:imageあきらが100mで11.44をたたき出すのは相模原ギオンスタジアムである。(https://ja.wikipedia.org/wiki/相模原麻溝公園競技場より借用)f:id:rasuno_nibannsennji:20180525235142j:imageあきらが走る海岸は逗子海岸である。原作では横浜市金沢区海の公園であったが、何らかの都合でこちらに変更したのであろう。(https://parking.nokisaki.com/spot/p/14208より借用)f:id:rasuno_nibannsennji:20180525235627j:image

 

このシーンの前に、あきらとはるかが走る夜明けのシーンはおそらく山下公園方面である。

ずさんで申し訳ないが、ロケ地紹介はこのあたりで切り上げたい。

 

本稿は対比をテーマに映画・原作・アニメの本質に迫りたい。

 

まずは対比という視点で映画の本質に迫りたい。最初に挙げるのは、あきらと店長の対比である。ラジオやカーステレオを聴く店長とスマートフォンを操作しながらテレビを眺めるあきら。ここに世代の差が顕著に現れている。

また、私が強く印象づけられたのは桜木町の待ち合わせシーンとはるかがものを投げるシーン、すれ違いのシーンである。桜木町ではあきらは加瀬と店長のそれぞれとデートすることになる。加瀬と会う日、待ち合わせ場所では加瀬があきらを呼び、気だるげなあきらが振り向く。店長と会う日、待ち合わせ場所ではあきらが店長を呼び、着飾ったあきらは可憐に笑う。原作通りのシーンであるが、同じアングル、あのテンポは爽快である。次に、はるかが投げるものである。あきらが11.44の記録で優勝した日、はるかはスタンドからあきらに向けタオルを投げる。怪我の後、陸上とはるかから少し距離を開けたあきらにはるかは校舎の2階からムキ彦のカプセルを投げる。陸上をあいだに挟んだ関係とそれがなくても続く関係。2つの対比は本当に美しい。

 

それでは次に原作とそのメディアミックスであるアニメ・映画を比較したい。

まず触れたいのは情景描写である。原作ではあきらの心情は雨で表され、多くのシーンに傘が登場する。最終章付近で、たたんだ傘から雫が滴り落ちる店長とこれから傘を広げるあきらの描写は実に印象的である。また、ガーデンを辞め、競技に復帰したあきらが持つ日傘は「雨がやんだら傘はどうするべきか」という最終巻の課題を劇的に解決する。それでは、映画では何が傘の代わりをしたか。これは天気予報である。前半、葛藤するあきらと店長が描かれるシーンで流れるラジオの予報は雨を告げる。それがあきらがテレビで見る天気予報であっても、店長がラジオで聞くものであっても必ず予報は雨である。それがラストシーン間近では2人のどちらの予報も「長く続いた雨はやみ、晴れ間が広がるでしょう」と告げるのである。

次に触れたいのは音楽である。原作であきらが音楽を聴くシーンでは映画と同様に神聖かまってちゃんの楽曲が用いられる。映画では主題歌に神聖かまってちゃんの「フロントメモリー」のカバーを、劇中歌に伊藤ゴロー、スカートの澤部明、忘れらんねえよの柴田隆浩、神聖かまってちゃんのの子とmonoを迎え、雨音を思わせるピアノサウンドが使用された。アニメではオープニングにCHICO with Honey Worksの「ノスタルジックレインフォール」エンディングにAimerの「Ref:rain」が使用された。この項目ではそれぞれに使用された楽曲の歌詞からその意図を読み取りたい。「フロントメモリー」は原作者眉月じゅんが原作を書きながら聴いていたあきらのテーマソングである。自分が本当にやらなければならないことは分かっていても、沈んだ気持ちが奮起させることを許さないような頑張ることの出来ない人への応援歌ととることが出来る。「ノスタルジックレインフォール」は自分の気持ちに気づいてくれない年上に向ける曲。あきらのいじらしい気持ちを歌う。「Ref:rain」は幼い自分の切なさを歌う曲である。

こうして並べると明確に個性が出る。原作はともかく、映画とアニメは明確に重きを置く場所が違うのである。恋と雨をブレンドした原作に対し、アニメは恋愛に重きを置き、映画は雨宿りに重きを置いている。

それではそのようにフィーチャーする場所が異なる物語の終着点はどこに行き着くのか。もちろん傘のたたみ方も3作異なる。どしゃ降りの心に傘を差し出してくれた店長との恋は、雨が止めばどうなるか。原作では、互いに恋心を抱きながら2人の恋は成就することなく、店長があきらをやりたいことへと進ませる。雨がやみ、畳んだ傘は日傘となる。明確な終わりに少しの光が差すラストである。アニメでは、2人は別れ際、再会の約束をする。2人が諦めたものに向き合うことが出来たその日に。これは終わりを感じさせながら、どこかに再会の可能性を残す観るものを救うラストである。

忘れない。時が過ぎてもどこに居ても明日を教えてくれた人を思い出す。雨上がりの空を見る度に。

とのモノローグは実に扇情的である。

そして映画では、店長はあきらに「来月のシフトは希望通りには入れられない。来月は1度も入れられない。来月だけじゃなくて、再来月もこの先もずっと(うろ覚え)」と告げ、あきらはリハビリを始める。ラストシーンは河川敷。軽自動車のカーステレオから「それでは最後はこの曲」という声が漏れた時、店長とあきらが率いる風見沢高校陸上部がすれ違う。車を降りる店長とあきらは二人きりになる。あきらは涙を溜めながら「店長、私たち友達なんですよね?」と尋ねる。(この時の小松菜奈の顔を私はずっと忘れられない)続けて、「友達ならメールとかすると思うんです。」これはもう舌を巻かざるを得ない。このセリフをここで使うのかと。2人が思いを通わせること、別れることしかなかった原作・アニメと異なり、映画ではあきらが涙を飲み、それでも続けることを選ぶ。これは苦く優しいラストである。

こじつけて解釈すれば、「RECした風景は再生せず」のようにリアルタイムを持ち続けず、思い出にしてしまうのが原作である。「この瞬間迷わない 傘はいらない」のアニメでは、ふたりはもう互いがいなくても歩き出すことが出来る。おそらく2人が互いに連絡することはない。そして、映画は「RECした風景は再生せずに ニュービート」のように、恋に蓋をし友達として店長と向き合うことをあきらは選ぶ。

私が一番好きなラストは日傘の原作である。店長は、手紙を読まないことであきらへの思いを抑え込む。あきらは最後のプレゼントを店長を忘れないとの思いを込めて雨上がりの空に掲げる。反対に見える彼らの仕草は、恐らくしばらく経てば逆転する。あきらは店長を忘れ、店長は一生涯あきらを忘れることが出来ない。

 

おそらく、どのラストが好きであるかは人により異なるだろう。また、どのラストが好きかと聞かれてすぐ答えられる人は本当に少ないだろう。ただ、そのどれもが人々の心に哀愁を残す。本稿を締めるにあたって、声を大にして言おう。「これこそが実写化成功作品である」

映画をもって私の2年半にわたる雨は止んだ。ブルーレイの発売を待つ。(らす)

 

 

 

The time is now ~RADWIMPSの新章~

本日のネタはRADWIMPSの新曲「カタルシスト」の耳コピ歌詞である。

全ては私のおんぼろクソイヤーが聞き取ったものなので保証はできない。英詩は1部自信があるが、文法としては恥ずかしいほど稚拙である。本稿では、耳コピのあと、新曲の感想を上げていきたい。

 

勝つか負けるかとかじゃないだとか勝ちよりも価値のある待ちだとか言いたいこたぁわからねぇでもねぇがおい
勝たなきゃ始まらにゃーこともあるわけであるのだからさ

詰まるところようするに今は御託ならべずにがむしゃらに勝ちにいく時


今がその時 今が今まさにその時
今がその時 今が今まさにその時

Here we are now is get take this game.No way loseing is not suitable.
For everything feel carring inside us.
Let's brake in the pieces of the blue.
We are go winners.

 

誰かを負かしたい訳じゃない
ただ自らの高みへ
登りたい出会いたいまだ見ぬ自分の姿に
だから僕ら今手をとるよ
あなたの握る力がどれほどの勇気をくれるのか
あなたはきっと知らない
あなたにとってもどうかそうでありたい


敵は強く見えるものいつの時もそういうもんだもの だども敵にとっちゃ君はまたその遥か高くそびえ立つ超えられなき偉大な壁
今日までの君の日々のすべてをいざ出す時はそう


今がその時 今が今まさにその時
今がその時 今が今まさにその時

Here we are now is get take this game.No way loseing is not suitable.
For everything feel carring inside us.
Let's brake in the pieces of the blue .
We are go winners.

 

誰かを負かしたい訳じゃない
ただ自らの高みへ
登りたい出会いたいまだ見ぬ自分の姿に
だから僕ら今手をとるよ
あなたの笑う姿がどれほどの勇気をくれるのか
あなたはきっと知らない
あなたにとってもどうかそうでありたい


君と走り抜ける風に乗れば勝てない痛みなどないとただ愚かな程に信じれる心があるよ
僕が叫ぶこの声にはたとえ意味などなかろうと
君にただ届けと願う心が叫ぶのやめないの
願うだけただ願うだけ
君の夢が咲き誇るまで
願うだけそう願うだけ
君の夢は僕のでもあるから

 

本曲の感想を一言で言えば「やられた」。前回のブログで近年RADWIMPSは「やられた」と思う曲がないと書いた考察が恥ずかしい。いや、私が最近のRADWIMPSはみんなに受け入れられるものに寄ってきていると考えていることは変わらない。人間開花は最も開けたアルバムで、叩かれることは覚悟だが最も嫌いなアルバムである。それでは本作はどうであったか。本作は今までの閉鎖的RADWIMPSと開放的RADWIMPSの融合という構成を持つ。RADWIMPSの新しい顔となる曲である。

さて本作は打ち込み全開のヒップホップサウンドである。トレーラーからコッテコテJ-Rock(pops)を想像してしまったことを謝罪したい。彼らの曲にはヒップホップ要素が度々登場する。しかし、本作は革新的だ。何が革新的か、それはもちろん前向きな歌詞である。彼らのヒップホップ調の曲は厭世観に満ちていた。他者への批判で自己への批判で満ちていた。それが本曲ではどうだ。これは自分を鼓舞するヒップホップである。

私がコッテコテJ-Rock(pops)と批判したサビ。これは綺麗なRADWIMPSを好む人向け。そして前述したごちゃごちゃしたRADWIMPSのラップ。広く愛される開放的サウンドと狭く好むものしか聴かない閉鎖的サウンドが交互に繰り返され、最後にはエレクトリカルなRADWIMPSサウンドへと重なる。これはたまらない構成である。

そして、新章と題うった本曲は今までのRADが散りばめられている。打ち込みのドラムは、まるでアイアンバイブル。ラップはAADAKOODA。君の夢は僕のと語る歌詞はリユニオンのよう。今日までの君に叫べを感じるのは私の考えすぎである。"I" novelまでも彷彿させる。。

とにかくカタルシストは新しい。これがいいか悪いかは今の私には言えない。開かれたRADWIMPSを嫌っているのは何も変わらない。今作もどちらかと言えば開放的RADWIMPSに寄るだろう。しかし、本作を嫌いになれない、むしろ興奮してしまったことは事実である。頭では私の好む閉鎖的哲学的厭世的RADWIMPSでないと理解しても、耳が本作を好むのを止まらない。

この先のRADWIMPSはきっともう閉鎖的なものに戻ることはないだろう。開かれてしまった扉には人が押し寄せ、それは閉じることを許さない。それに対し、悲観する人も、歓喜する人もいるだろう。しかし、彼らの曲はそのどちらもを引きずる力を持っている。初見の感想が「やられた」で始まるこれからのRADWIMPSに期待しよう。HINOMARUはどうなるか、発売日が待ち遠しい。

きみと歌いたい曲がある〜『parks』と続く日々〜

あなたはオープンリールを知っているだろうか。簡単に言えばレトロな音楽プレーヤーである。それでは井の頭公園は?橋本愛は?染谷将太は?永野芽郁は?

さて、今回語りたいのは映画『parks』についてである。本作は井の頭公園100周年を記念して作成された公園と音楽がテーマの極上青春映画である。

なぜ筆者が本作を観たか。これは橋本愛の出演に尽きる。橋本愛がまた劇中で歌うと聴けば筆者が黙っていられるわけがなかろう。しかし、橋本愛見たさから観た映画と言うには申し訳ないほど「すごいものを見た」。この映画には力がある。

 

それではあらすじを説明する。本作は井の頭公園の過去と現在、未来を繋ぐ音楽の物語である。中心にあるのは50年前に作られた未完成の曲。曲は大学生の純(橋本愛)と売れないミュージシャンのトキオ、高校生のはる(永野芽郁)の3人を引き合せる。ストーリーが進む事に重なる過去と現在。彼らのグレーな日常は曲作りによって動き始める。

 

何が凄いといえば、この映画の作る空気である。ふわっとした何かが起きそうでそれでいて起きない日々。気だるいくせにやたらとキラキラする景色。それが無気力な純に非常に合う。それだけでなく、何にもなれないトキオや行くあてのないはるの心情にまで非常に合う。そんな光の取り込み方、脚本(絶対アドリブあった)演出まで本当に素晴らしい。監督のファンになりそう。

中心となる曲は作中で数パターン使われるがそのどれもが素敵。劇伴もテーマである「Park Music」も良いが、公園で弾き語りをしているという設定で度々登場するスカートが良い。まだまだインディーズのアーティストが登場するが、私が認識できたのはスカートだけであった。申し訳ない。

 

 

そしてここからネタバレを含む感想を書く。

本作が色を変えた後半について語りたい。暴走したかと思いかなり怖かった。なんだろう、打ち切りエンドのような流れの早さを感じた。サビを歌い出した時は鳥肌がたったが、それ以外は理解することが出来なかった。2回目でじわっと染みてきて、やっと本質に触れることが出来た気がする。

まずは、はるは何者であったか。本作は過去を描き、現在を描く。過去は祖母佐知子とその元恋人晋平、友人の健太が担う。現在はその孫であるトキオ、はる、友人の純が担う。しかし、恐らくこれはそれだけに収まらない。なぜならこれは井の頭公園100周年を記念する物語だから。公園は100周年を迎えるだけに終わらない。過去現在だけでなく未来が必要である。それでは、この映画の未来を担うのは誰か。おそらくはるである。突拍子のない話になるが、はるは実はタイムトラベラーなのではなかろうか。そうすれば突然挿入される過去は実際にはるが行っていたと解釈できるし、最後のシーンの純白の部屋にいる春も、純の行動を予測していた小説も全て納得が行く。「オープンリールの向こう側 君は聴いているのかな このメロディーが過去も未来も超える 君に口ずさんでいて欲しい」これが全てを理解して歌っているのならなんとも狂おしく愛おしい。

そして彼らは別れる。晋平と佐知子は別れる。純・トキオとはるは別れる。井の頭公園で様々な人々の人生の1ページは終わる。しかし、それでも日々は続く。晋平も佐知子もそれぞれその後結婚する。純は数年後井の頭公園に帰る。公園で終わった物語はまた別の人によって始められる。ここで別れた恋人たちの代わりにここで心を通わせる人たちがいる。

映画内で明言されることは無かったが、はるが未来の象徴であるなら本作は続く日々を描く物語ではないだろうか。オープンリールに録音された音楽は途中で止まる。しかし、50年後それを受け継ぐものにより完成される。彼らの音楽を作る日々は終わっても彼らの人生は終わらない。あんなに親密に付き合っていた3人はきっともうずっと一緒にいることは無い。それでも純の心の穴を埋める人ははるの代わりにやってくる。大きな出来事が終わり緩やかに退屈が帰ってくる。見慣れた風景も、馴染んだ人々もやがて去っていく。現実の日々はそうして続く。誰かが誰かの役割を受け継いで進んでいく。それをどんなに拒んでも。

 

本ブログ史上最もまとまりのない文になったがPark Musicの歌詞を引用して締めさせていただく。

「春」から「順」に「時を」経て

そうして日々は続いていくけれど、それではやはり寂しいではないか。そんな哀愁を感じる時、口ずさむ曲がある彼らがひたすらに羨ましい。(らす)

 

目指す場所と旅の終わり ~三浦しをんと遺失物~

これは本当に私が書くべきではない。

 

夢の舞台が見えてくるこの時期は、大勢の人の夢が終わる季節でもある。インハイ・インカレ・全中・国体、大きな大会は当たり前のことだが、出場する人よりもそれを目指した人の方がずっと多くいる。目指す大会までの日数は引退までのカウントダウンと等しい。

 

さて、本日のネタは『風が強く吹いている』だ。

 

本書は、かつて陸上界のエースだった蔵原走が同じ寮に住む初心者9名と箱根駅伝を目指す青春小説だ。

本書の主人公は蔵原走だ。しかしながら、本当の主人公はその先輩である灰二であると言っても過言ではない。彼は、高校時代名門校の練習による故障から「弱小部でも、素人でも、地力と情熱があれば走ることはできる。」ことを証明するため、寮の住人を巻き込む。

彼は「修復」という物語のテーマを象徴する人物だ。

深い挫折を負った彼は語る。

走っても走らなくても、苦しみはある。同じくらいの喜びも。(中文略)

どこへ行っても同じならば、踏みとどまって、自分の心が希求することをやり通すしかない。

 

「歩いていれば、そのうちはしりだしたくなりますよ」

 

「あせらず歩こう。そうすればきっと、走れるようになるから」

 

三浦しをんは様々な物語から伝える。失くしたものは同じ形ではかえらないと。

灰二の古傷に、『まほろ駅前多田便利軒』では行天の小指に、済んだことは取り返しがつかないと。

しかし、「すべてが元通りとは行かなくても、修復することはできる。」

 

理想の形で終わることが出来るのは本当に一握りのみだ。その理想の終着点というものがどこまで進めたかだけで測れるものならば。しかし、理想の形はそれだけでは測れない。自分はよくやったとすんなり認めることが出来る地点が、あなたの理想の終着点だ。どこかに諦めきれない気持ちがあるなら、悔しいのなら走って欲しい。もちろん、やり直しに遅いということは無い。しかし、ここで走ることが出来るのは今だけだ。もう一度よく心に留めてほしい。修復はできると。(らす)