「かつての」を抱き、いきる
人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香ににほひける
柄にもなく和歌から書き出させて頂こう。古今集から作者は紀貫之だ。有名な歌であるので蛇足とは思うが、人の心はわからないが、ふるさとは昔のままといった意味であることを説明させていただく。
歌の通り人の気持ちは移ろいやすい。大切でたまらなかった人がふとしたきっかけで疎遠になったりする。人は気づけば変わってしまうから、「かつての」という形容詞がつく人ばかりが増えていく。冒頭にはふるさとは昔のままとあるが、今の時代そういう訳にもいかないだろう。人も町も時間とともに元の形を失っていく。人生において得るものよりも失うものの方が遥かに多いと齢20にして考える。
さて、先日三浦しをんの『ののはな通信』を読んだ。本作はこれから長らく私が一番好きな本として挙げることになるだろう。本項ではその感想をあげたい。
しをんさん(以下以上敬称略)の小説には失ったものが色濃く現れる。そして毎度深い穴を心にあけてくれる。しかし彼女はそれを埋め直す優しさを持っている。…気がする。
『ののはな通信』は本年の5月に三浦しをんが出版した500ページ弱の書簡小説だ。本書のあおりは<震えるほどの恋の記憶を抱き 私たちは、生きる>だ。
内容に触れる前に書簡という形式について書きたい。本作は2人の女性の直情を繊細に描く。これを描ききるには書簡形式が最適なのである。これ以上に複数の気持ちを長いスパンで描ききる書き方があるだろうか。一人称をひとつだけ使って書いても相手の心情を動作から伺うことが出来る。しかしそれでは足りぬこともある。思っていることを全てセリフとして書けばくどい。一人称を章ごとに交換するやり方もあるがそれではシーンごとの双方の心情がわからない。
その全ての問題は手紙の形にしてしまえば片付くのである。思いの丈は全て手紙で書くことが出来る。消印の日付は日数の経過を明確に表わし、署名は決意を表す。その上、三浦しをんは書簡上に情景までも浮かばせる。舌を巻かざるを得ない。
それでは軽くあらすじを紹介しよう。
今作の舞台は横浜山手の女子高、聖フランチェスカから始まる(石川町のくだりと響きからフェリス女学院だろう)。主人公は野々原茜(のの)と牧田はな(はな)。ののは賢く大人っぽく、気高い委員長で、はなは天真爛漫な帰国子女だ。新刊紹介にも書いてあるのでネタバレにはならないだろう。書かせてもらう。ののは密かにはなに対して恋を抱き、それは奇跡的に成就する。しかし、彼女らの関係はある揺らぎによって終焉を迎える。それでも物語は終わらない。本作は1985年から徐々に現代へと近づいていく。高校生だった彼女らは大学生になり、それからずっと大人になっていく。
つぎに本作で私の好きなフレーズをご覧頂きたい。変わりゆく互いを嘆き、終わった恋に焦がれる、私の好きな成分を存分に含んでいる作品だとご理解頂けるだろう。
最も好きなフレーズはここには書かない。ご自分の目で確かめていただきたい。
幼い恋だとわらうひともいるかもしれないけれど、私にはすべてだった。
何かが終わり、変わっていく予感がするけれど、この予感はきっと外れる。変わりそうで変わらないまま、きっと日常はつづくんだ。
私たちはどんどん変わっていってしまう
どうして言葉なんてあるんだろう。友情とか恋愛とか、男とか女とか、言葉はなにかを区別し、分断するためにあるとしか思えない。
私ほどあなたの幸と不幸をねがうものはいるまい。あなたをなによりもだれよりも大切に思い、あなたの幸せを祈る者がいること。
この物語の何が素晴らしいかといえば、懇切丁寧に別れのあとを描いた点だろう。しかも、その別れは1度ではない、幾度もだ。さらにこの物語を至上のものにするのは、別れたあとの彼女たちの思いが執着にとどまらない点ではなかろうか。島本理生の『ナラタージュ』は終わった恋に「最初で最後のさようなら」をする物語だ。それに対して今作の彼女たちは終わった恋を次第に厚く、穏やかに作り上げていく。2人で思い出を削り出していく作業を1冊のうちにするのだ。
冒頭にあったように、彼女たちも変わらない日常の中で時間をかけて変わっていく。互いに対する想いも自身も変わっていく。それでも彼女たちの関係は時を経るごとに深いものになっていることが伺える。なぜなら、彼女たちの文体が最も似通うのは後年だからだ。
仕草や口調は愛した人の分だけ蓄積され、それは時が経ってもどこかに残るのなら、移ろいやすい日々の中で最も変わらないのは実は人なのかもしれない。